黒島の人々は、「さようなら」を「あしたよなあ」というのだ。船で島を離れる人にも「あした会いましょう」とよびかける。
2010(平成22)年5月9日、三島村特攻平和祈念祭から帰りの大里港で見送りにきた小中学生13人が「あしたよなあ」と書いた横断幕を広げ、声をそろえて「あしたよなあ~」と何回も叫んだ。
参加者が船上から「あしたよなあ~」と応える。かたわらの年配の女性は「このお別れのあいさつが聞きたくて、またこの島へ来るの」という。私も同じ気持ちで15年5月9日、再度この島に渡った。
参加者が船上から「あしたよなあ~」と応える。かたわらの年配の女性は「このお別れのあいさつが聞きたくて、またこの島へ来るの」という。私も同じ気持ちで15年5月9日、再度この島に渡った。
黒島は平安時代末期、僧俊寛が流された硫黄島からさらに西約30キロにある。硫黄島と黒島の間は黒潮の分流が入り、平安時代当時は硫黄島から黒島へ渡ることは難しかった。
写真家名取洋之助は1954(昭和29)年、黒島の生活を撮影し、「忘れられた島」と題して発表した。①
その4年後、作家有吉佐和子は28歳の時、黒島を訪れ、「私は忘れない」を朝日新聞に連載した。何かと反目する2地区の男女の恋を絡めながら小学校校長の教育にかける情熱を描く。「忘れられた」と言われようが、人が住む限り生活の熱がある、と訴える。映画にもなった。
戦後70年の2015(平成27)年5月10日、有吉佐和子の娘さんで大阪芸術大学教授の有吉玉青さんが黒島で「『私は忘れない』の中に生きる母・佐和子」と題して記念講演をした。三島村が特攻平和祈念祭と並ぶ企画として黒島に招いた。
今は連絡船が平均して2日に1回、5時間余かけてやってくる。台風の通り道にあたり、自然は厳しい。この島で住民は「あしたまたあいましょう」と暮らしてきた。
黒島の大里地区在住の日高康雄さんによると、午前中に交わす別れの言葉は「後(のち)よう」という。今日中にまた会えますね、という気持ちを込めている。
午後の別れとなると、「あしたよなあ」と言い換える。
島で生きるためには「別れ」はあってはならない、との皮膚感覚なのだろうか。前日夕の「はなむけの宴」を締めくくった「のぼるチンダイさん」が切なく思い出された。
「あしたよなあ」「後よう」は今では日常語としては使われなくなってきたというが、学校の先生が転勤で、子どもが進学、就職で島を離れるとき、港で「あしたよなあ」と言って別れを告げる。
船が港外に出て、岸壁が小さく見えたが、少年少女の「あしたよなあ~」と叫ぶ声は届いた。海面を低くはってきた。風の加減か、声は急に膨らむ時があった。
その4年後、作家有吉佐和子は28歳の時、黒島を訪れ、「私は忘れない」を朝日新聞に連載した。何かと反目する2地区の男女の恋を絡めながら小学校校長の教育にかける情熱を描く。「忘れられた」と言われようが、人が住む限り生活の熱がある、と訴える。映画にもなった。
戦後70年の2015(平成27)年5月10日、有吉佐和子の娘さんで大阪芸術大学教授の有吉玉青さんが黒島で「『私は忘れない』の中に生きる母・佐和子」と題して記念講演をした。三島村が特攻平和祈念祭と並ぶ企画として黒島に招いた。
今は連絡船が平均して2日に1回、5時間余かけてやってくる。台風の通り道にあたり、自然は厳しい。この島で住民は「あしたまたあいましょう」と暮らしてきた。
黒島の大里地区在住の日高康雄さんによると、午前中に交わす別れの言葉は「後(のち)よう」という。今日中にまた会えますね、という気持ちを込めている。
午後の別れとなると、「あしたよなあ」と言い換える。
島で生きるためには「別れ」はあってはならない、との皮膚感覚なのだろうか。前日夕の「はなむけの宴」を締めくくった「のぼるチンダイさん」が切なく思い出された。
「あしたよなあ」「後よう」は今では日常語としては使われなくなってきたというが、学校の先生が転勤で、子どもが進学、就職で島を離れるとき、港で「あしたよなあ」と言って別れを告げる。
船が港外に出て、岸壁が小さく見えたが、少年少女の「あしたよなあ~」と叫ぶ声は届いた。海面を低くはってきた。風の加減か、声は急に膨らむ時があった。
「明日」を頼りに島の生活を続けてきたのだ、と思うと、この島の上空を、また沖合を特攻任務で通り過ぎた若者たちの歌や言葉が響いてきた。
① 岩波写真文庫148、1955年刊
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
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