黒島における薬品投下という特攻秘話を続ける。
……
1945(昭和20)年4月29日午前、鹿児島県三島村黒島の海は穏やかだった。日高康雄少年(11)が海岸にいると、安部正也少尉と安永克己さんがやってきた。「坊や、魚をとりにいくんだよ」と言って、二人は小舟に乗り、克己さんが櫓をこいで海岸を出ていった。
小舟は幅2m、長さ5mほどの伝馬船で、沖に出ると米袋を帆として立てた。安部少尉は小舟の前部に座り、航空機のジャイロで北の方向を計った。潮流に乗ると、またたく間に島影は遠ざかった。イルカが飛び跳ねてきて、安部少尉はびっくりしていた。
米軍機も日本軍機も見なかった。
夜は潮にまかせてぐっすり眠った。夜明けに枕崎の灯台が見えた。が、天候は急変。風向きは変わり、小雨がまじってきた。
一方、黒島では2人が出た翌日、北西の風が強く吹き、大嵐になったことから「あの2人はもう死んだな」とみながささやきあっていた。
すると、克己さんの母親が「神様のお告げがあった。お不動様が舟を持ち上げてくれる」と言い出した。
母親は巫女のような存在で、島の人は母親のお告げを頼りにしていたが、この時はみな、「あー、息子の死を認めたくないのだな」と母親に同情した。
小舟には天候の急変が幸いした。米俵の帆が雨を受けて目がつまり、風を一杯に受けて、枕崎沖から東へ一気に押し流された。開聞岳が見えると安部少尉は軍帽を振り、軍歌を歌った。克己さんは血豆だらけとなった手で櫓を漕ぎ、海岸に押し込んだ。上陸すると2人は知覧基地に歩いて直行した。
5月4日ごろ、日高少年は不自然な爆音を聞いた。航空機は島の上空を通過するが、海岸すれすれに向かってきたのだ。
その爆音のコースは安部機が不時着した時と同じだったので、日高少年は「安部さんが来たあ―」と絶叫した。
爆音は遠ざかったが、しばらくして今度は上空から雷のような大きな音ともに飛行機が下りてきて、何かを落とした。しょうゆ樽のように見えたが、爆弾投下に備えて日高少年は訓練通りに耳穴を押さえて伏せた。
落下物は何度かはねて、安永家の近くにとまった。
克己さんの兄が落下物を拾い、宛先を見て、「柴田少尉殿か」とつぶやき、肩にしょって歩いていった、と日高少年は覚えている。
落下物の中身は、やけどの薬、包帯、たばこ、チョコレート、現金20円(現在約6万円相当)だった。
この飛行機はもう一つの集落、片泊でもキャラメルを落としていた。
いずれにしても島の青年、克己さんは無事、本土に着いたことは間違いないということがわかり、島の人、とりわけ、母親の涙を浮かべての喜びはひとしおだった。
5月11日、海軍機が不時着した。江名武彦少尉を指揮官とする3人乗り九七式艦攻だ。6月12日、中村憲太郎陸軍少尉が片泊集落に不時着し、片泊に滞在した。島に滞在する不時着した特攻隊員は計5人となった。
5人は7月末、陸軍の潜航艇(通称マルユ艇)で本土に戻ったが、特攻の菊水作戦は終了していた。5人は戦後を迎えた。
2004(平成16)年5月、三島村は黒島冠岳の頂上に同村平和公園をつくり、開聞岳に向かって特攻平和観音像を建てた。大やけどを治し、戦後も健在だった柴田さん(故人)と江名さんの協力を受けた。
同時に、安部少尉を櫓漕ぎの舟で送り届けた克己さんは、薬品箱が落下した場所に「悼安部正也大尉」碑を建立した。「大尉」とあるのは、特攻死は2階級特進するためだ。
克己さんは「自分が舟を漕がなければ、安部少尉は島で命永らえたかもしれない」と自分を責め、碑文を書いた。
克己さんは戦後、安部少尉を送り届けたことを誇りに思っていた。特攻隊員を尊敬し、「安部少尉は本当に見事な死に方をした」と称賛していた。
ある報道機関が安部少尉の母親を黒島に連れてきた。母親は「息子は生きている。島のどこかに隠れているのではないか」という。
母親は黒島に不時着した特攻隊員5人がいると知り、息子もその1人ではないか、と期待したのだ。
この時から克己さんは自分がした行為、安部少尉を小舟で帰還させたことに疑問を持ち始めた。
「自分は安部少尉の家族に悪いことをした。私が連れていかなければ、他の不時着隊員と同じく戦後を迎えることができた」
「特攻は最高の名誉と教育され、そのように信じた。が、今では特攻隊員は戦争の一番の犠牲者、被害者とわかった」
克己さんは人前で戦争の話をするときは必ずこういう。そして、こうも付け加える。
「安部少尉は『操縦成績は抜群によかった』と自慢していた。特に目標に爆弾を投下する訓練は得意だったという。黒島の薬品投下は安部少尉によること間違いない」。
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1945(昭和20)年4月29日午前、鹿児島県三島村黒島の海は穏やかだった。日高康雄少年(11)が海岸にいると、安部正也少尉と安永克己さんがやってきた。「坊や、魚をとりにいくんだよ」と言って、二人は小舟に乗り、克己さんが櫓をこいで海岸を出ていった。
小舟は幅2m、長さ5mほどの伝馬船で、沖に出ると米袋を帆として立てた。安部少尉は小舟の前部に座り、航空機のジャイロで北の方向を計った。潮流に乗ると、またたく間に島影は遠ざかった。イルカが飛び跳ねてきて、安部少尉はびっくりしていた。
米軍機も日本軍機も見なかった。
夜は潮にまかせてぐっすり眠った。夜明けに枕崎の灯台が見えた。が、天候は急変。風向きは変わり、小雨がまじってきた。
一方、黒島では2人が出た翌日、北西の風が強く吹き、大嵐になったことから「あの2人はもう死んだな」とみながささやきあっていた。
すると、克己さんの母親が「神様のお告げがあった。お不動様が舟を持ち上げてくれる」と言い出した。
母親は巫女のような存在で、島の人は母親のお告げを頼りにしていたが、この時はみな、「あー、息子の死を認めたくないのだな」と母親に同情した。
小舟には天候の急変が幸いした。米俵の帆が雨を受けて目がつまり、風を一杯に受けて、枕崎沖から東へ一気に押し流された。開聞岳が見えると安部少尉は軍帽を振り、軍歌を歌った。克己さんは血豆だらけとなった手で櫓を漕ぎ、海岸に押し込んだ。上陸すると2人は知覧基地に歩いて直行した。
5月4日ごろ、日高少年は不自然な爆音を聞いた。航空機は島の上空を通過するが、海岸すれすれに向かってきたのだ。
その爆音のコースは安部機が不時着した時と同じだったので、日高少年は「安部さんが来たあ―」と絶叫した。
爆音は遠ざかったが、しばらくして今度は上空から雷のような大きな音ともに飛行機が下りてきて、何かを落とした。しょうゆ樽のように見えたが、爆弾投下に備えて日高少年は訓練通りに耳穴を押さえて伏せた。
落下物は何度かはねて、安永家の近くにとまった。
克己さんの兄が落下物を拾い、宛先を見て、「柴田少尉殿か」とつぶやき、肩にしょって歩いていった、と日高少年は覚えている。
落下物の中身は、やけどの薬、包帯、たばこ、チョコレート、現金20円(現在約6万円相当)だった。
この飛行機はもう一つの集落、片泊でもキャラメルを落としていた。
いずれにしても島の青年、克己さんは無事、本土に着いたことは間違いないということがわかり、島の人、とりわけ、母親の涙を浮かべての喜びはひとしおだった。
5月11日、海軍機が不時着した。江名武彦少尉を指揮官とする3人乗り九七式艦攻だ。6月12日、中村憲太郎陸軍少尉が片泊集落に不時着し、片泊に滞在した。島に滞在する不時着した特攻隊員は計5人となった。
5人は7月末、陸軍の潜航艇(通称マルユ艇)で本土に戻ったが、特攻の菊水作戦は終了していた。5人は戦後を迎えた。
2004(平成16)年5月、三島村は黒島冠岳の頂上に同村平和公園をつくり、開聞岳に向かって特攻平和観音像を建てた。大やけどを治し、戦後も健在だった柴田さん(故人)と江名さんの協力を受けた。
同時に、安部少尉を櫓漕ぎの舟で送り届けた克己さんは、薬品箱が落下した場所に「悼安部正也大尉」碑を建立した。「大尉」とあるのは、特攻死は2階級特進するためだ。
克己さんは「自分が舟を漕がなければ、安部少尉は島で命永らえたかもしれない」と自分を責め、碑文を書いた。
克己さんは戦後、安部少尉を送り届けたことを誇りに思っていた。特攻隊員を尊敬し、「安部少尉は本当に見事な死に方をした」と称賛していた。
ある報道機関が安部少尉の母親を黒島に連れてきた。母親は「息子は生きている。島のどこかに隠れているのではないか」という。
母親は黒島に不時着した特攻隊員5人がいると知り、息子もその1人ではないか、と期待したのだ。
この時から克己さんは自分がした行為、安部少尉を小舟で帰還させたことに疑問を持ち始めた。
「自分は安部少尉の家族に悪いことをした。私が連れていかなければ、他の不時着隊員と同じく戦後を迎えることができた」
「特攻は最高の名誉と教育され、そのように信じた。が、今では特攻隊員は戦争の一番の犠牲者、被害者とわかった」
克己さんは人前で戦争の話をするときは必ずこういう。そして、こうも付け加える。
「安部少尉は『操縦成績は抜群によかった』と自慢していた。特に目標に爆弾を投下する訓練は得意だったという。黒島の薬品投下は安部少尉によること間違いない」。



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