「戦艦大和だ。遂に立つ」
1945(昭和20)年3月28日午後3時すぎだった。太平洋戦争が始まって3年3ヶ月たつ。
広島県呉市の呉海軍工廠で動員学徒矢岡壮介さん(当時17歳)は、昼勤務を終え、宿舎の三段ベッド最上段に横になった。その時、工場群から鳴り響いていた鋲打ちの甲高い音が小さくなり、あたりが急に静かになった。
異様な緊張感を感じ、「何事か」と起きあがった。
呉軍港を見下ろすと、約3キロ沖合にある26番ブイから巨大な船が離れ、右へ回ろうとしていた。
広島県呉市の呉海軍工廠で動員学徒矢岡壮介さん(当時17歳)は、昼勤務を終え、宿舎の三段ベッド最上段に横になった。その時、工場群から鳴り響いていた鋲打ちの甲高い音が小さくなり、あたりが急に静かになった。
異様な緊張感を感じ、「何事か」と起きあがった。
呉軍港を見下ろすと、約3キロ沖合にある26番ブイから巨大な船が離れ、右へ回ろうとしていた。
瀬戸内海西部に位置する呉軍港は日本海軍の一大根拠地だ。一般人は軍機密から港を見ることはできない。家の港側には窓をつくることは許されなかった。しかし、呉市民は見ていた。この数日間、はしけが大和に寄りつく状況、上陸する水兵の動きから「次の出港は訓練ではない。出撃だ」と察していた。
矢岡少年は大分県・大分師範学校に在学中、学徒動員で呉海軍工廠に来た。戦後、東京都大田区で中学校の美術教師となる。戦後50年を機に1995(平成7)年9月、呉市が開いた「絵で見る戦後50年の原点」展に寄せて、呉海軍工廠で体験した鋳物を流し込むといった労働現場と共に、戦艦大和が母港、呉軍港から最後となる出撃の情景を描いた。
「呉軍港 戦艦大和出撃の日 寮の窓より見送る」と題した絵には、宿舎の下に広がる呉海軍工廠のクレーンは動きを止め、戦艦大和を注視しているように見える。湾内の波は静まり、停泊する船が一斉に戦艦大和を見送っている。
「物陰から、窓の中から、市民は息を潜めながら興奮している様子だった」
矢岡少年は大分県・大分師範学校に在学中、学徒動員で呉海軍工廠に来た。戦後、東京都大田区で中学校の美術教師となる。戦後50年を機に1995(平成7)年9月、呉市が開いた「絵で見る戦後50年の原点」展に寄せて、呉海軍工廠で体験した鋳物を流し込むといった労働現場と共に、戦艦大和が母港、呉軍港から最後となる出撃の情景を描いた。
「呉軍港 戦艦大和出撃の日 寮の窓より見送る」と題した絵には、宿舎の下に広がる呉海軍工廠のクレーンは動きを止め、戦艦大和を注視しているように見える。湾内の波は静まり、停泊する船が一斉に戦艦大和を見送っている。
「物陰から、窓の中から、市民は息を潜めながら興奮している様子だった」
戦艦大和は呉海軍工廠で建造された。1937(昭和12)年11月4日起工し、1941(昭和16)年12月16日に竣工した。工事期間は4年1ヶ月。
搭載する主砲は世界最強といわれ、艦の大きさは世界最大だった。公試排水量6万9100トンは同時期に建造されたアメリカのアイオワ型戦艦を約2万トンも上回る。
現在では戦艦という艦種は建造されないから、大和に「世界最大の戦艦」という枕詞はこれからもついてまわる。
主砲の砲身は5種類の筒を嵌め込んでつくられた。軽くて強い砲身から重さ1.5トンの徹甲弾は41.6キロ先まで飛んだ。この筒を削り出す技は工員の腕にかかっていた。熱した大きな筒、大きなものは長さ約21メートルもあったが、これを嵌め合わす技術は職人技だった。
巨艦を推し進めるプロペラは4枚つけたが、直径は6メートルもあった。当時の世界ではイギリス客船クイーンメリー号に次ぐ大きさだ。微妙な曲面を描くプロペラの翼の先端まで産湯50トンを鋳込む技術は職人芸だった。
この巨大戦艦をつくるために平均して1日約1万人の工員が動員された。
「わしがおらんかったら、大和は動かん」と自慢する工員は多かった。
工員たちは戦局が下り坂のふもとまで落ち込んでいる様子を察していた。修理してもすぐに艦首などを吹き飛ばされて帰ってくる軍艦が多かったからだ。
3月10日の東京大空襲から米軍はB29爆撃機の大編隊を使って日本の都市に無差別爆撃を始めた。同19日には呉港が初めて米艦載機の空襲を受けた。
この状況下でも呉市民は「大和ある限り日本は大丈夫」と思っていた。その大和が出撃する。
搭載する主砲は世界最強といわれ、艦の大きさは世界最大だった。公試排水量6万9100トンは同時期に建造されたアメリカのアイオワ型戦艦を約2万トンも上回る。
現在では戦艦という艦種は建造されないから、大和に「世界最大の戦艦」という枕詞はこれからもついてまわる。
主砲の砲身は5種類の筒を嵌め込んでつくられた。軽くて強い砲身から重さ1.5トンの徹甲弾は41.6キロ先まで飛んだ。この筒を削り出す技は工員の腕にかかっていた。熱した大きな筒、大きなものは長さ約21メートルもあったが、これを嵌め合わす技術は職人技だった。
巨艦を推し進めるプロペラは4枚つけたが、直径は6メートルもあった。当時の世界ではイギリス客船クイーンメリー号に次ぐ大きさだ。微妙な曲面を描くプロペラの翼の先端まで産湯50トンを鋳込む技術は職人芸だった。
この巨大戦艦をつくるために平均して1日約1万人の工員が動員された。
「わしがおらんかったら、大和は動かん」と自慢する工員は多かった。
工員たちは戦局が下り坂のふもとまで落ち込んでいる様子を察していた。修理してもすぐに艦首などを吹き飛ばされて帰ってくる軍艦が多かったからだ。
3月10日の東京大空襲から米軍はB29爆撃機の大編隊を使って日本の都市に無差別爆撃を始めた。同19日には呉港が初めて米艦載機の空襲を受けた。
この状況下でも呉市民は「大和ある限り日本は大丈夫」と思っていた。その大和が出撃する。
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