工場の男性事務員が自転車で「大和が行くんでー」と大声をあげて回ってきた。
学徒動員の女学生は海岸に出て、整列した。約1キロ沖合を戦艦大和が右手からやってきた。
学徒動員の女学生は海岸に出て、整列した。約1キロ沖合を戦艦大和が右手からやってきた。
女学生たちは精一杯手をあげて白いハンカチを振った。自然と「出征兵士を送る歌」の歌声がわきあがった。
アジア・太平洋戦争が1941(昭和16)年12月8日に始まってから2年余の1944(昭和19)年2月、劣勢の軍事情勢を建て直すため政府は「決戦非常措置要綱」を閣議決定し、軍需工場に学生や女学生を労働力として動員した。呉海軍工廠に動員された女学生は島根、愛媛、広島3県の24高等女学校から最多期には約4000人にのぼった。①
戦艦大和が呉港を出撃した1945(昭和20)年3月28日の午後遅く。大和は呉市と江田島の間の幅2キロ前後という狭い水道を北上した。呉港を出て約5キロ進むと、左舷側の江田島市切串に海軍火薬工場がある。②
学徒動員の高等女学校生徒57人が働いていた。呉市に住む主婦西迫マツ子さんはその1人だった。
アジア・太平洋戦争が1941(昭和16)年12月8日に始まってから2年余の1944(昭和19)年2月、劣勢の軍事情勢を建て直すため政府は「決戦非常措置要綱」を閣議決定し、軍需工場に学生や女学生を労働力として動員した。呉海軍工廠に動員された女学生は島根、愛媛、広島3県の24高等女学校から最多期には約4000人にのぼった。①
戦艦大和が呉港を出撃した1945(昭和20)年3月28日の午後遅く。大和は呉市と江田島の間の幅2キロ前後という狭い水道を北上した。呉港を出て約5キロ進むと、左舷側の江田島市切串に海軍火薬工場がある。②
学徒動員の高等女学校生徒57人が働いていた。呉市に住む主婦西迫マツ子さんはその1人だった。
わが大君に召されたる生命(いのち)光栄(はえ)ある朝ぼらけ………いざ征けつわもの日本男児!
1939(昭和14)年10月、講談社が軍人を戦地に送る歌を全国募集した。レコード会社キングの歌手、林伊佐緒が作曲に応募し、最優秀に選ばれた。歌も自分が歌った。
招集を受けた人や志願兵が入営する時、町内会や婦人会の見送りや激励会で盛んに歌われた。子どもも覚えた。
女学生は白のタスキ掛けの作業服に白いはちまきという姿だ。14歳から16歳で、今の中学2、3年生、高校1年生にあたる。
1939(昭和14)年10月、講談社が軍人を戦地に送る歌を全国募集した。レコード会社キングの歌手、林伊佐緒が作曲に応募し、最優秀に選ばれた。歌も自分が歌った。
招集を受けた人や志願兵が入営する時、町内会や婦人会の見送りや激励会で盛んに歌われた。子どもも覚えた。
女学生は白のタスキ掛けの作業服に白いはちまきという姿だ。14歳から16歳で、今の中学2、3年生、高校1年生にあたる。
この日、海軍水路部の記録によると最高気温が20.9度まで上がり、前日までの10度台から一気に春めいた日だった。歌声は高揚した。
乗組員は大和のあらゆる所に整列し、高いマストにも鈴なりとなって「帽振れ」で応えた。電線にツバメがとまっているかのようだった、と西迫さんには見えた。
乗組員は大和のあらゆる所に整列し、高いマストにも鈴なりとなって「帽振れ」で応えた。電線にツバメがとまっているかのようだった、と西迫さんには見えた。
出撃途上の大和の艦上から女生徒の見送りに水兵が応える行動はとれるのだろうか。当時、大和艦橋の最上部にあった主砲射撃指揮所に配置の八杉康男さん=広島県福山市在住=に聞いたことがある。返答は、概要次の通りだった。八杉さんは17歳で、沖縄海上特攻作戦から生還した。
……自分には少女見送りは記憶にない。配置についていなかったのかもしれない。軍隊は命令がすべてで、水兵が勝手に陸上の見送りに対して行動できない。しかし、江田島と呉市の間は狭い水道なので航行の安全を図るために「狭水道見張り」を両舷に配置する。また、両岸からのスパイ行動を警戒して艦上のあちこちから双眼鏡で見張りをする。作業服は白なので目立つ。少女には水兵が電線ツバメのように見えたのだろう……
西迫さんはこの時の情景を戦後50年の1995(平成7)年、絵にして呉市に納めた。
「もう大丈夫よね。大和が出撃したからね。一生懸命働こう」と西迫さんらは手りゅう弾に火薬をつめる仕事に戻った。軍艦が動けなくなった海軍の水兵が本土決戦の陸上戦闘で使う手りゅう弾だ。
西迫さんは「いざ征け」と歌ったことを今、後悔する。戦艦大和は沖縄海上特攻作戦で沈没し、乗員の約9割にあたる3016人が戦死した、と戦後に知る。死を覚悟して「帽振れ」の答礼をする水兵に「死んでこい、といわんばかりの見送りになった」と思うのだ。
「もう大丈夫よね。大和が出撃したからね。一生懸命働こう」と西迫さんらは手りゅう弾に火薬をつめる仕事に戻った。軍艦が動けなくなった海軍の水兵が本土決戦の陸上戦闘で使う手りゅう弾だ。
西迫さんは「いざ征け」と歌ったことを今、後悔する。戦艦大和は沖縄海上特攻作戦で沈没し、乗員の約9割にあたる3016人が戦死した、と戦後に知る。死を覚悟して「帽振れ」の答礼をする水兵に「死んでこい、といわんばかりの見送りになった」と思うのだ。
① 「呉海軍工廠女子動員学徒寄宿舎跡記念碑」碑文から=呉市立吉浦中学校に建立
② 呉海軍工廠火工部第二装填切串火薬工場
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② 呉海軍工廠火工部第二装填切串火薬工場
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