戦艦大和が呉軍港を後にして9日後の1945(昭和20)年4月6日夕。大和を旗艦とする第二艦隊第一遊撃部隊10隻は豊後水道にさしかかった。
呉を出る時の命令は「長崎県佐世保港に前進待機」だったが、今は「海上特攻兵力として沖縄西方海面に突入、敵水上艦艇並びに輸送船団を攻撃撃滅すべし」となった。燃料は片道分、と指定された。①
沖縄海上特攻作戦だ。世界の海戦史上、例がない艦隊特攻となる。
別府湾に停泊していた特務艦波勝(はかち)=基準排水量1,641トン=が大和艦隊を目撃した。夕日がまさに沈まんとする豊後水道を粛々と南下していく。
津田武彦艦長(33)は沖縄特攻と直感し、「武運長久を祈る」の旗流信号をマストに上げた。そして電信室に大和艦隊の電報を全部傍受するよう指示した。②
波勝は爆弾投下の標的となる艦で、模擬爆弾を実際に受ける。しかし、当時は零戦を主とした特攻機の突入訓練の標的となっていた。
大和艦隊が沖縄特攻に成功しても、それはより確実な全滅となる。以後、日本海軍が取る戦術は特攻しか残っていない。特攻機訓練に果たす波勝の役割は重大となる。
呉を出る時の命令は「長崎県佐世保港に前進待機」だったが、今は「海上特攻兵力として沖縄西方海面に突入、敵水上艦艇並びに輸送船団を攻撃撃滅すべし」となった。燃料は片道分、と指定された。①
沖縄海上特攻作戦だ。世界の海戦史上、例がない艦隊特攻となる。
別府湾に停泊していた特務艦波勝(はかち)=基準排水量1,641トン=が大和艦隊を目撃した。夕日がまさに沈まんとする豊後水道を粛々と南下していく。
津田武彦艦長(33)は沖縄特攻と直感し、「武運長久を祈る」の旗流信号をマストに上げた。そして電信室に大和艦隊の電報を全部傍受するよう指示した。②
波勝は爆弾投下の標的となる艦で、模擬爆弾を実際に受ける。しかし、当時は零戦を主とした特攻機の突入訓練の標的となっていた。
大和艦隊が沖縄特攻に成功しても、それはより確実な全滅となる。以後、日本海軍が取る戦術は特攻しか残っていない。特攻機訓練に果たす波勝の役割は重大となる。

長崎県・大村湾に面した海軍川棚魚雷艇訓練所でも司令松原博少将(48)が大和艦隊の暗号電報を翻訳するよう指示を出した。親展の暗号電報だから、連合艦隊司令部以外は解読禁止だ。が、体当たり魚雷艇の訓練基地だから本土防衛の担い手となる。大和艦隊の運命は一刻も早く知りたかった。

同様に全国の海軍基地は大和艦隊の動静を追っていた。日本海軍77年の歴史で最後となる艦隊作戦になる、と知っていたからだ。
大和艦隊は豊後水道で最も狭くなる速吸瀬戸を一列となって通った。ここを抜けると米潜水艦が忍び寄り、米艦上機の行動範囲内となる戦闘海域だ。
速吸瀬戸に突き出す愛媛県・佐田岬に駐屯する陸軍西部第二七三八部隊が見送った。
戦艦大和は最後尾について通過した。
「堂々たる様子は変わらないが、その時はまことに寂しく見えた。悲壮感に満ちた出撃だった」と小寺幸一軍曹(当時24歳)=戦後、広島県府中市在住=は思い出す。
兵隊たちは「やられに行くんじゃのう」「日本は終わりだ」とささやいていた。
大和艦隊は豊後水道で最も狭くなる速吸瀬戸を一列となって通った。ここを抜けると米潜水艦が忍び寄り、米艦上機の行動範囲内となる戦闘海域だ。
速吸瀬戸に突き出す愛媛県・佐田岬に駐屯する陸軍西部第二七三八部隊が見送った。
戦艦大和は最後尾について通過した。
「堂々たる様子は変わらないが、その時はまことに寂しく見えた。悲壮感に満ちた出撃だった」と小寺幸一軍曹(当時24歳)=戦後、広島県府中市在住=は思い出す。
兵隊たちは「やられに行くんじゃのう」「日本は終わりだ」とささやいていた。
① 沖縄海上特攻作戦の大和に、現場の裁量で往復分の燃料を搭載したという証言がある。別の場所でまとめる予定だ。
② 特務艦波勝戦友会編「特務艦波勝」から
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
問い合わせ、ご指摘、ご意見はCONTACTよりお願いします。
② 特務艦波勝戦友会編「特務艦波勝」から
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