戦後、呉市は自らを戦犯都市の影の下に置いた。
1951(昭和26)年の広島国体で呉市は水泳、バレーバールなど5競技の会場となった。この時、選手に配った「第6回国体歓迎・呉市紹介特集」は「呉軍港は如何にして滅びたか?」と題していた。
その前書きでは
…新生呉市を紹介するにあたって、呉海軍は如何にして亡びたか、終戦前後の録音(注 インタビューの意味)も併せて、全国より集う国体選手及び関係者のお土産に供する…
として、10回の呉空襲のうち被害が大きかった5回について状況を述べた。
裏面では「軍港の悪夢を払って」「混迷を重ねた五星霜」「今や呉市の再建は洋々と」の見出のもと、
…日本帝国主義の牙城だった呉軍港―呉市が迎えた敗戦は余りに冷たいものであり、同時にその後歩んできた六年間は全くの苦難の歳月でありました―中略―対日講話の調印を得て全国民がその将来に大きな希望を託していますが、特に呉市民は戦犯都のらく印から解放された喜びに浸っています。その矢先、第六回国民体育大会を迎えました。みなさんの御来呉を心から歓迎しますとともに、戦犯都から平和都市へとひたむきに変貌を遂げつつある呉市の歩みを紹介したいと思います…
と、「戦犯都」と自虐的に自称している。
続いて呉港周辺に着底した連合艦隊の艦艇、戦艦の伊勢、榛名、重巡洋艦青葉など5隻のスクラップ化の進展を記事にしている。スクラップ合計が約8万トン、払い下げ価格約6千万円で全国の鉄鋼関係の工場に送られ、平和産業資材として再生されている―と復興に寄与を強調した。
1951(昭和26)年の広島国体で呉市は水泳、バレーバールなど5競技の会場となった。この時、選手に配った「第6回国体歓迎・呉市紹介特集」は「呉軍港は如何にして滅びたか?」と題していた。
その前書きでは
…新生呉市を紹介するにあたって、呉海軍は如何にして亡びたか、終戦前後の録音(注 インタビューの意味)も併せて、全国より集う国体選手及び関係者のお土産に供する…
として、10回の呉空襲のうち被害が大きかった5回について状況を述べた。
裏面では「軍港の悪夢を払って」「混迷を重ねた五星霜」「今や呉市の再建は洋々と」の見出のもと、
…日本帝国主義の牙城だった呉軍港―呉市が迎えた敗戦は余りに冷たいものであり、同時にその後歩んできた六年間は全くの苦難の歳月でありました―中略―対日講話の調印を得て全国民がその将来に大きな希望を託していますが、特に呉市民は戦犯都のらく印から解放された喜びに浸っています。その矢先、第六回国民体育大会を迎えました。みなさんの御来呉を心から歓迎しますとともに、戦犯都から平和都市へとひたむきに変貌を遂げつつある呉市の歩みを紹介したいと思います…
と、「戦犯都」と自虐的に自称している。
続いて呉港周辺に着底した連合艦隊の艦艇、戦艦の伊勢、榛名、重巡洋艦青葉など5隻のスクラップ化の進展を記事にしている。スクラップ合計が約8万トン、払い下げ価格約6千万円で全国の鉄鋼関係の工場に送られ、平和産業資材として再生されている―と復興に寄与を強調した。
私は新聞記者として呉市に赴任した1990年代、被爆した広島市が平和都市を発信するなか、呉市は戦犯都市の陰を引きずっているように見えた。戦前の呉市が東洋一の大工場、呉海軍工廠を擁する軍港だった過去を総括できないままのようだった。
呉市民と親しくなると、また取材が終わって帰ろうとすると、「私の父は戦艦大和の甲鈑をつくっていたんですよ」「兄は鋲打ちの名人なんて言われましたけどね。大和には苦労したそうです」など、それとなく戦艦大和に言及する場面によくであった。
「よそから来た人は戦艦大和をどう思っているのか」と探るような眼差しも感じ、呉市の底流に「戦艦大和」が漂う、と確信するようになった。呉市を知るために戦艦大和の資料を求めた。
呉市民と親しくなると、また取材が終わって帰ろうとすると、「私の父は戦艦大和の甲鈑をつくっていたんですよ」「兄は鋲打ちの名人なんて言われましたけどね。大和には苦労したそうです」など、それとなく戦艦大和に言及する場面によくであった。
「よそから来た人は戦艦大和をどう思っているのか」と探るような眼差しも感じ、呉市の底流に「戦艦大和」が漂う、と確信するようになった。呉市を知るために戦艦大和の資料を求めた。
「大和」を建造した呉海軍工廠の工員や各部ごとの思い出集や記録が数多く出ていた。
その一つ、「呉海軍工廠造船部沿革誌」という本を読んでびっくりした。
同誌は明治、大正各時代に出された同造船部の歴史本を合本して1981(昭和56)年5月、広島市のあき書房が復刻した。呉海軍工廠の成り立ちを知り、富国強兵の足どりを追う貴重な史料だ。
びっくりしたというのは、解説で天野卓郎という広島県史編さん室主幹がローマ法王ヨハネ・パウロ二世の広島市講演を踏まえて、軍工廠と軍事技術に向かう姿勢に警鐘を鳴らしていたからだ。
パウロ二世は同年2月25日、広島市で国連大学と同市の共催で「技術・社会そして平和」と題する特別講演をおこなった。
冒頭、パウロ二世はいう。
…戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません。
もはや切っても切れない対をなしている2つの町、日本の2つの町、広島と長崎は、「人間は信じられないほどの破壊ができる」ということの証として、存在する悲運を担った、世界に類のない町です…
講演はさらに「現代の科学技術についての三つの危険な誘惑」に進む。
…その一つは、技術を社会と文化から独立したものととらえ、技術の自己目的のための追求という誘惑
二つは、科学技術を共同の利益と無関係に経済的利潤とそれへの無制限の従属として追求する誘惑
三つは、科学技術の発展を巨大権力の軍事目的のために追求するという誘惑
…
解説は、以上のパウロ二世の講演を引用し、「人間の優位より物の価値が重んじられる社会、これこそ明治以来の軍工廠とその科学技術に象徴されるところの、日本の知的状況・知識人の問題がここで厳しく問われていたように思われる」と述べている。
戦艦大和に関心を持ち、取材しようとする者に対しての心構えをまさしく示唆している。
その一つ、「呉海軍工廠造船部沿革誌」という本を読んでびっくりした。
同誌は明治、大正各時代に出された同造船部の歴史本を合本して1981(昭和56)年5月、広島市のあき書房が復刻した。呉海軍工廠の成り立ちを知り、富国強兵の足どりを追う貴重な史料だ。
びっくりしたというのは、解説で天野卓郎という広島県史編さん室主幹がローマ法王ヨハネ・パウロ二世の広島市講演を踏まえて、軍工廠と軍事技術に向かう姿勢に警鐘を鳴らしていたからだ。
パウロ二世は同年2月25日、広島市で国連大学と同市の共催で「技術・社会そして平和」と題する特別講演をおこなった。
冒頭、パウロ二世はいう。
…戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません。
もはや切っても切れない対をなしている2つの町、日本の2つの町、広島と長崎は、「人間は信じられないほどの破壊ができる」ということの証として、存在する悲運を担った、世界に類のない町です…
講演はさらに「現代の科学技術についての三つの危険な誘惑」に進む。
…その一つは、技術を社会と文化から独立したものととらえ、技術の自己目的のための追求という誘惑
二つは、科学技術を共同の利益と無関係に経済的利潤とそれへの無制限の従属として追求する誘惑
三つは、科学技術の発展を巨大権力の軍事目的のために追求するという誘惑
…
解説は、以上のパウロ二世の講演を引用し、「人間の優位より物の価値が重んじられる社会、これこそ明治以来の軍工廠とその科学技術に象徴されるところの、日本の知的状況・知識人の問題がここで厳しく問われていたように思われる」と述べている。
戦艦大和に関心を持ち、取材しようとする者に対しての心構えをまさしく示唆している。
戦艦大和を建造した造船所やドックは残っていた。記念碑は建てられていた。
しかし、物足りない。巨砲の鉄筒を造る工員の声、ハンマーの音、クレーンの響きを感じ取る資料をまとめた所はなかった。また、軍艦を造る意味や戦艦大和の特攻出動を現場の技術者はどうとらえていたのだろうか。判断の基準となる物的な資料がなかった。
戦艦大和を表立って語ることに躊躇があったように見えた。
一方、雑誌や戦記もので登場する戦艦大和は「滅びの美」であり、「大和の技術は戦後発展の礎となった」と位置づける内容が大半だった。
本当なのか。そんな疑問にこたえるかのように、1995(平成7)年10月21日、シンポジウム「『大和』におもう」が開催された。赤煉瓦ネットワーク・呉レンガ建造物研究会と呉市が呉市戦後50周年記念事業として共催したのだ。
パネリストに「戦艦大和日記」の著作がある作家、脚本家の早坂暁氏、「男たちの大和」の辺見じゅん氏、地元から造船技術者西畑作太郎氏、司会に呉市史編さん室主幹(当時)の千田武志氏が決まったが、みな何らかの形で戦艦大和につながっていた。戦艦大和にも呉市にもまったく無関係の人を入れるべきだ、との提案で、近世文化、特に江戸時代の文化研究を専門とする田中優子・法政大教授(現在、法政大学学長)が加わった。
シンポジウム「『大和』におもう」は、24年近くたつ今から振り返ると、「呉市で戦艦大和を語る」ことができるきっかけを作った企画だった、と思う。
大和シンポジウムはその後、テーマを替えて4回続いた。
そして、現在、呉市のテーマパークといっていい大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館、2005年開館)につながった、と私は見ている。
しかし、物足りない。巨砲の鉄筒を造る工員の声、ハンマーの音、クレーンの響きを感じ取る資料をまとめた所はなかった。また、軍艦を造る意味や戦艦大和の特攻出動を現場の技術者はどうとらえていたのだろうか。判断の基準となる物的な資料がなかった。
戦艦大和を表立って語ることに躊躇があったように見えた。
一方、雑誌や戦記もので登場する戦艦大和は「滅びの美」であり、「大和の技術は戦後発展の礎となった」と位置づける内容が大半だった。
本当なのか。そんな疑問にこたえるかのように、1995(平成7)年10月21日、シンポジウム「『大和』におもう」が開催された。赤煉瓦ネットワーク・呉レンガ建造物研究会と呉市が呉市戦後50周年記念事業として共催したのだ。
パネリストに「戦艦大和日記」の著作がある作家、脚本家の早坂暁氏、「男たちの大和」の辺見じゅん氏、地元から造船技術者西畑作太郎氏、司会に呉市史編さん室主幹(当時)の千田武志氏が決まったが、みな何らかの形で戦艦大和につながっていた。戦艦大和にも呉市にもまったく無関係の人を入れるべきだ、との提案で、近世文化、特に江戸時代の文化研究を専門とする田中優子・法政大教授(現在、法政大学学長)が加わった。
シンポジウム「『大和』におもう」は、24年近くたつ今から振り返ると、「呉市で戦艦大和を語る」ことができるきっかけを作った企画だった、と思う。
大和シンポジウムはその後、テーマを替えて4回続いた。
そして、現在、呉市のテーマパークといっていい大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館、2005年開館)につながった、と私は見ている。
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
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