広島県呉市の呉港から江田島・小用行きフェリーに乗ると、左手に海上へ突き出た2列の走行クレーンが見えてくる。戦艦大和の主砲を動かす砲塔を積み出したクレーンだ。戦後、一部改装されたが、外見は同じだ。①
呉港東岸の約4キロに渡る沿岸は戦前、旧海軍の呉鎮守府、呉海軍工廠があった。高度の秘密保持が求められた要塞地帯だった。途切れる辺りに砲塔積出クレーンがある。戦後は水圧試験を受ける原子炉の圧力容器を搬出入していた。戦後も企業秘密という秘密の下にあった訳だ。
この一角には呉海軍工廠の砲熕部、製鋼部の工場が建ち並んでいた。旧海軍の艦砲、防禦甲鈑を一手に引き受けて製造していた秘密中の秘密の場所だ。砲熕とは大砲をいう。今では余り使われない用語だ。
呉市史第6巻や弘中柳三編「大呉市民史昭和編」をひもとくと、海軍呉鎮守府と呉海軍工廠という秘密の大施設と共に呉市民が「秘密」と付き合いながら生活を営むが、やがて戦艦大和の建造が始まると、「秘密」に呑み込まれる姿を知ることができる。
戦前昭和の呉市は現代の日本人にとって他人事ではない。2013(平成25)年の特定秘密保護法、15年は集団的自衛権を盛り込んだ安全保障関連法、16年の通信傍受法改定、17年には「共謀罪」法と続くと、これからの世の中は秘密、官僚、自衛隊がキーワードとなるようだ。
そんな世の中になったらどうなるか、を戦前昭和の呉市の市民生活を見たらわかる。
1928(昭和3)年、同工廠砲熕部で2人の少壮軍人人事があった。今から見ると、戦艦大和の出発点となったといっていい。
工務主任の斎尾慶勝中佐(46)が東京の艦政本部第一部製図場主任へ転出した。②
ワシントン海軍軍縮条約が1932(昭和7)年に期限切れとなるため、新戰艦の主砲を研究するためだ。
横須賀工廠から渡辺武造兵少佐(36)が作業係第五班へ主任として転入してきた。③
主砲の砲身を照準に合わせようと上下左右に動かす動力源、水圧ポンプの水漏れを防ぐ皮パッキンの改良が主な仕事だった。
1928(昭和3)年3月15日、政府は治安維持法違反容疑で共産党員の大量検挙(3・15事件)、さらに6月29日、国会の審議未了の拡大治安維持法案を緊急勅令で公布、7月1日には全国の県警察部に特別高等警察課、いわゆる「特高」を設置して国民思想の取り締まりを強化した。この間の6月には満州某重大事件としか発表されなかった張作霖爆死の陰謀が関東軍の手で進んだ。
戦艦大和の構想は治安維持法が覆う世相の下で始動した。
呉市史第6巻や弘中柳三編「大呉市民史昭和編」をひもとくと、海軍呉鎮守府と呉海軍工廠という秘密の大施設と共に呉市民が「秘密」と付き合いながら生活を営むが、やがて戦艦大和の建造が始まると、「秘密」に呑み込まれる姿を知ることができる。
戦前昭和の呉市は現代の日本人にとって他人事ではない。2013(平成25)年の特定秘密保護法、15年は集団的自衛権を盛り込んだ安全保障関連法、16年の通信傍受法改定、17年には「共謀罪」法と続くと、これからの世の中は秘密、官僚、自衛隊がキーワードとなるようだ。
そんな世の中になったらどうなるか、を戦前昭和の呉市の市民生活を見たらわかる。
1928(昭和3)年、同工廠砲熕部で2人の少壮軍人人事があった。今から見ると、戦艦大和の出発点となったといっていい。
工務主任の斎尾慶勝中佐(46)が東京の艦政本部第一部製図場主任へ転出した。②
ワシントン海軍軍縮条約が1932(昭和7)年に期限切れとなるため、新戰艦の主砲を研究するためだ。
横須賀工廠から渡辺武造兵少佐(36)が作業係第五班へ主任として転入してきた。③
主砲の砲身を照準に合わせようと上下左右に動かす動力源、水圧ポンプの水漏れを防ぐ皮パッキンの改良が主な仕事だった。
1928(昭和3)年3月15日、政府は治安維持法違反容疑で共産党員の大量検挙(3・15事件)、さらに6月29日、国会の審議未了の拡大治安維持法案を緊急勅令で公布、7月1日には全国の県警察部に特別高等警察課、いわゆる「特高」を設置して国民思想の取り締まりを強化した。この間の6月には満州某重大事件としか発表されなかった張作霖爆死の陰謀が関東軍の手で進んだ。
戦艦大和の構想は治安維持法が覆う世相の下で始動した。
① 2019(令和元)年11月1日現在、同クレーンの現存確認
② 防衛省防衛研究所所蔵史料「日誌回想斎尾慶勝」記述
③ 東京大学工学部造兵精密同窓会誌「大樹」掲載渡辺武「パッキンと私の因縁」から。掲載号は調査中。
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
問い合わせ、ご指摘、ご意見はCONTACTよりお願いします。
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
問い合わせ、ご指摘、ご意見はCONTACTよりお願いします。