…実にパッキンのために軍艦でも海軍工廠でも莫大な無駄をしていたのみならず、一方では戦闘力の低下という重大な影響さえ考えねばならぬ段階に来ていたのである。これが昭和6(1931)年春の実情であって、私は砲塔工場主任として日夜その責め苦にあえぎ、何とかしてパッキンを改善し、トラブルを一掃しなければならない、と自責の念に堪えないものがあった…①
呉海軍工廠砲塔工場の渡辺武主任は戦後、出身校の同窓会誌に当時の日本海軍の軍艦の状況を述べている。
戦艦山城(基準排水量29,330㌧)の水圧タンクの容量は100㌧ある。水圧水には腐食防止と潤滑のため鉱油と石けんを加える。規定では鉱油270㎥、石けん30㎏。
パッキン不良で漏水が多く、毎年404㌧の水を補水した。補水に対する鉱油、石けんを補充しなければならないが、上限があった。ある年の山城に対する鉱油の補充量は332㎥、石けん38㎏だったが、補水404㌧に必要な量の半分にも足りない有様で、年度末の水圧水はほとんど淸水に近い状態となった。
1931(昭和6)年当時、戦艦は10隻あった。主砲の砲塔は計48基。鉱油と石けんの補充量は大変な量に達した。
しかし、漏水がもたらす致命的な問題は戦闘力の低下だった。
主砲の砲身を支える砲架は発射後の反動で後退する。操法では砲身を20度上げた状態で砲架を元に戻す時間を5秒と定めている。水圧筒から漏水が多いと、砲架を元に戻す力が弱り、7~8秒かかる。しかし、操法が定める通り「5秒」で戻さねばならない。そこで現場は砲架にかかる砲身の圧力を減らそうと砲身の上向きの角度(仰角)を15度に下げた。5度下げるのに1~2秒かかる。次の砲弾、火薬を装填して砲身を20度に持ち上げるが、5度下げた分をまた上げる。3秒かかる。結果、発射間隔は4~5秒程度延びた。②
36センチ砲の発射間隔は35秒を目標とした。5秒延びたら、発射間隔は1.14倍増える。
猛訓練で気合いが入っても、水漏れで気が抜ける、といった有様だった。
当時の戦艦10隻のうち、36センチ砲搭載は8艦で40門あった。ちなみに残り2艦、長門、陸奥は41センチ砲。大和の46センチ砲は約40秒を目標とした。③
呉海軍工廠砲塔工場の渡辺武主任は戦後、出身校の同窓会誌に当時の日本海軍の軍艦の状況を述べている。
戦艦山城(基準排水量29,330㌧)の水圧タンクの容量は100㌧ある。水圧水には腐食防止と潤滑のため鉱油と石けんを加える。規定では鉱油270㎥、石けん30㎏。
パッキン不良で漏水が多く、毎年404㌧の水を補水した。補水に対する鉱油、石けんを補充しなければならないが、上限があった。ある年の山城に対する鉱油の補充量は332㎥、石けん38㎏だったが、補水404㌧に必要な量の半分にも足りない有様で、年度末の水圧水はほとんど淸水に近い状態となった。
1931(昭和6)年当時、戦艦は10隻あった。主砲の砲塔は計48基。鉱油と石けんの補充量は大変な量に達した。
しかし、漏水がもたらす致命的な問題は戦闘力の低下だった。
主砲の砲身を支える砲架は発射後の反動で後退する。操法では砲身を20度上げた状態で砲架を元に戻す時間を5秒と定めている。水圧筒から漏水が多いと、砲架を元に戻す力が弱り、7~8秒かかる。しかし、操法が定める通り「5秒」で戻さねばならない。そこで現場は砲架にかかる砲身の圧力を減らそうと砲身の上向きの角度(仰角)を15度に下げた。5度下げるのに1~2秒かかる。次の砲弾、火薬を装填して砲身を20度に持ち上げるが、5度下げた分をまた上げる。3秒かかる。結果、発射間隔は4~5秒程度延びた。②
36センチ砲の発射間隔は35秒を目標とした。5秒延びたら、発射間隔は1.14倍増える。
猛訓練で気合いが入っても、水漏れで気が抜ける、といった有様だった。
当時の戦艦10隻のうち、36センチ砲搭載は8艦で40門あった。ちなみに残り2艦、長門、陸奥は41センチ砲。大和の46センチ砲は約40秒を目標とした。③
① 東京大学工学部造兵精密同窓会誌大樹掲載の渡辺武「パッキンと私の因縁(その一)」。掲載号、年月日は調査中
② 呉海軍工廠造兵部史料集成下巻499ページ渡辺武からの聞き書き「艦砲における革衝帯(パッキン)の改良」=山田太郎著、自費で2001年刊
③ 松本喜太郎著、戸高一成編「戦艦大和設計と建造」27ページ表13大和搭載主砲塔主要要目=アテネ書房2000年刊
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
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