戦艦大和前部の1番砲塔、2番砲塔から3連装の砲身計6門が突き出ている。口径46cm、全長約21m、1門の重さ160㌧の巨砲が一斉に音もなく軽やかに上下、左右に砲口を振った。
「神の手だ」
「神の手だ」
戦艦大和が竣工し、実戦配備に就く直前の1941(昭和16)年12月10日。呉海軍工廠電気実験部の坪田孟技手(29)は見学で乗艦し、世界最大の艦砲を見た。アララギ派の歌人でもある坪田技手は主砲の偉容を「神の手」と表現した。①
戦艦大和の巨砲を自在に操る動力源は水圧だ。新型の水圧ポンプと共に革パッキンの改良が功を奏した。
砲塔動力として米、独は電力を、日、英は水圧力を主として使った。
水圧力の利点は電力と比べると、水圧管は熱を発生しない。水圧管が破壊されても爆発はない▽火花が飛ぶことはないので弾火薬庫に水圧管を回しても危険はない▽故障の場所をたやすく見つけることができる▽保存、取り扱いに専門知識は必要としない▽騒音は出ない▽起動、停止は取手を扱うだけで早急にできる▽速度の調節範囲が大きい▽水圧ポンプの容積が小さく、据え付ける場所に特別な配慮は必要ない▽電力装置に比べ重量は少ない▽頑強で乱暴な扱いに耐え、いわゆる武人の蛮用に適する―と数々挙げられる。②
戦艦大和の巨砲を自在に操る動力源は水圧だ。新型の水圧ポンプと共に革パッキンの改良が功を奏した。
砲塔動力として米、独は電力を、日、英は水圧力を主として使った。
水圧力の利点は電力と比べると、水圧管は熱を発生しない。水圧管が破壊されても爆発はない▽火花が飛ぶことはないので弾火薬庫に水圧管を回しても危険はない▽故障の場所をたやすく見つけることができる▽保存、取り扱いに専門知識は必要としない▽騒音は出ない▽起動、停止は取手を扱うだけで早急にできる▽速度の調節範囲が大きい▽水圧ポンプの容積が小さく、据え付ける場所に特別な配慮は必要ない▽電力装置に比べ重量は少ない▽頑強で乱暴な扱いに耐え、いわゆる武人の蛮用に適する―と数々挙げられる。②
渡辺武・造兵少佐が1928(昭和3)年から4年かけて取り組んだ革パッキン改良の苦心談は3点の資料でうかがえるが、「小鹿源太郎」という民間人が度々登場する。③
同資料によると、小鹿氏は1915(大正4)年、大阪・西淀川に小鹿皮革工業所を設立し、革の鞣(なめ)し製造からパッキン製造までの一貫作業を始めた。同氏は呉海軍工廠に出入りし、パッキン用には在来のタンニン鞣し革をやめ、クローム鞣しの革を用いるべきだ、と主張してきた。
渡辺少佐は、小鹿氏が推奨するクローム鞣しの革パッキンを試し、その有効性を認めたが、水圧管内にさびが出る問題が未解決だった。鞣すときに使う硫酸が残っていたからだ。水洗いで脱酸をしなければならないが、海軍の要求に小鹿皮革工業所は試行を重ねた。長さ2.5m 高さ1.5mもの水槽をつくり、クロームで鞣した革を沈めた。1週間ごとに裏返し、水を替えること2~3週間で酸が抜ける作業過程を確立した。2年かけた結果だった。
しかし、長期間の水漬け作業が必要で、民間の一工場では海軍の注文量に応じることができない。
動物の皮を革、毛皮にするには24工程を経る。剥いだばかりの生皮は血液や肉質が付着しており、腐りやすい。早急に塩漬けにして保存処理をする。小鹿皮革工業所は生皮を塩漬けにした後、クロームで鞣して水洗いをした濡れ革を呉海軍工廠に納入。呉工廠は酸を抜いて乾燥する工程を引き受けた。
呉工廠は砲塔工場2階にクローム鞣しの革を脱酸する水槽を2基つくった。
砲熕部機械目録にある「革鞣機械」の記録によると、1933(昭和8)年4月15日に訓令が出て、発注が決まった。使用開始は1934(昭和9)年3月31日。洗浄などのドラムを2種類、乾燥室や電動熱風機など約4100円、現在の価格にして約1200万円かかった。
ここに砲塔、砲身といった武骨な鉄に囲まれた一画に牛の水皮が大量に運び込まれる、という対照的な光景が現れた。
牛は和牛とか西洋牛とかは問題ではなく、年齢はもちろん影響するが、冬季のものが汗腺の肥大なく良品である、という。
ダニが発生しない地域の牛を選ぶことも大事だ。商社で皮革を長年扱った友人の話では、 オーストラリアでは北部がTick Zone、ダニが発生する地域とされる。中央部から南部がTick Free Zone、ダニが発生しない地域だ。
革パッキンは砲熕兵器のみならず、潜水艦が浮上、沈下する時に使う注排水弁を開閉する油圧管、魚雷発射の高圧圧縮空気機、冷凍装置のガス圧縮機など多方面に使われた。
革パッキンの需要は大戦中、厖大な数量に達したので、小メーカーが乱立した。各社とも拡張に次ぐ拡張で一時に膨張したが、終戦後は軍需が途絶え、一般産業は不振、原皮は入手難となり、さらにプラスチックの代用品が発達したため、革パッキン事業は縮小の一途をたどった。1955(昭和30)年ごろの状況だ。④
渡辺武氏の回顧で注目すべき事として2点ある。このパッキン改良は指示とか命令によってではなく、一技術官の熱意、使命感で始まり、民間技術者と連携して実現したことだ。
軍事工場におけるカイゼン運動だ。⑤
同資料によると、小鹿氏は1915(大正4)年、大阪・西淀川に小鹿皮革工業所を設立し、革の鞣(なめ)し製造からパッキン製造までの一貫作業を始めた。同氏は呉海軍工廠に出入りし、パッキン用には在来のタンニン鞣し革をやめ、クローム鞣しの革を用いるべきだ、と主張してきた。
渡辺少佐は、小鹿氏が推奨するクローム鞣しの革パッキンを試し、その有効性を認めたが、水圧管内にさびが出る問題が未解決だった。鞣すときに使う硫酸が残っていたからだ。水洗いで脱酸をしなければならないが、海軍の要求に小鹿皮革工業所は試行を重ねた。長さ2.5m 高さ1.5mもの水槽をつくり、クロームで鞣した革を沈めた。1週間ごとに裏返し、水を替えること2~3週間で酸が抜ける作業過程を確立した。2年かけた結果だった。
しかし、長期間の水漬け作業が必要で、民間の一工場では海軍の注文量に応じることができない。
動物の皮を革、毛皮にするには24工程を経る。剥いだばかりの生皮は血液や肉質が付着しており、腐りやすい。早急に塩漬けにして保存処理をする。小鹿皮革工業所は生皮を塩漬けにした後、クロームで鞣して水洗いをした濡れ革を呉海軍工廠に納入。呉工廠は酸を抜いて乾燥する工程を引き受けた。
呉工廠は砲塔工場2階にクローム鞣しの革を脱酸する水槽を2基つくった。
砲熕部機械目録にある「革鞣機械」の記録によると、1933(昭和8)年4月15日に訓令が出て、発注が決まった。使用開始は1934(昭和9)年3月31日。洗浄などのドラムを2種類、乾燥室や電動熱風機など約4100円、現在の価格にして約1200万円かかった。
ここに砲塔、砲身といった武骨な鉄に囲まれた一画に牛の水皮が大量に運び込まれる、という対照的な光景が現れた。
牛は和牛とか西洋牛とかは問題ではなく、年齢はもちろん影響するが、冬季のものが汗腺の肥大なく良品である、という。
ダニが発生しない地域の牛を選ぶことも大事だ。商社で皮革を長年扱った友人の話では、 オーストラリアでは北部がTick Zone、ダニが発生する地域とされる。中央部から南部がTick Free Zone、ダニが発生しない地域だ。
革パッキンは砲熕兵器のみならず、潜水艦が浮上、沈下する時に使う注排水弁を開閉する油圧管、魚雷発射の高圧圧縮空気機、冷凍装置のガス圧縮機など多方面に使われた。
革パッキンの需要は大戦中、厖大な数量に達したので、小メーカーが乱立した。各社とも拡張に次ぐ拡張で一時に膨張したが、終戦後は軍需が途絶え、一般産業は不振、原皮は入手難となり、さらにプラスチックの代用品が発達したため、革パッキン事業は縮小の一途をたどった。1955(昭和30)年ごろの状況だ。④
渡辺武氏の回顧で注目すべき事として2点ある。このパッキン改良は指示とか命令によってではなく、一技術官の熱意、使命感で始まり、民間技術者と連携して実現したことだ。
軍事工場におけるカイゼン運動だ。⑤
① 1996(平成8)年2月5日、呉市で聞き取り。
② 呉海軍工廠造兵部史料集成下巻495ぺージ「渡辺武聞き書き」=山田太郎著、自費で2001年刊
③ 東京大学工学部造兵精密同窓会誌大樹掲載の渡辺武「パッキンと私の因縁(その一)」▽呉海軍工廠造兵部史料集成下巻501ぺージ「渡辺武聞き書き」=山田太郎著、自費で2001年刊▽「ENGINEERING」誌第42巻第3号103ページ「日本に於けるパッキン工業の今昔」=1955(昭和30)年3月刊
④ 「ENGINEERING」誌第42巻第3号103ページ「日本に於けるパッキン工業の今昔」=1955(昭和30)年3月刊
⑤ 徹底的に無駄を省くトヨタ生産方式の核をなす考え方。生産現場の従業員を8人前後にグループ化し、自主的活動として展開する(2008年5月22日付朝日新聞キーワード「カイゼン運動」から)。
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
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