「大和主砲の砲身を引き揚げることができないか」
大和ミュージアム屋外展示の戰艦陸奥の主砲と並べたら、戦艦大和の主砲は特別な存在だったことが分かる、と広島県呉市の大和ミュージアムの実現に尽力した小笠原臣也・元市長や千田武志・元呉市史編さん室長らとよく話す。
戦艦の頂点は主砲砲身にある。戦艦の巨艦自体は巨砲を積み、移動するプラットホームに過ぎない。その砲身の製造は戦艦をつくる各種技術のなかで一番難しい、と言われる。
「大和」の主砲で見ると、砲身は4本の筒を嵌め込み、その間に鋼線を巻く。5層から成る。
戦艦の頂点は主砲砲身にある。戦艦の巨艦自体は巨砲を積み、移動するプラットホームに過ぎない。その砲身の製造は戦艦をつくる各種技術のなかで一番難しい、と言われる。
「大和」の主砲で見ると、砲身は4本の筒を嵌め込み、その間に鋼線を巻く。5層から成る。
重さ1.46トンという砲弾を41.4キロ先へ撃ち込む火薬の衝撃に耐えるため砲身は強くなければならないが、同時に重量が軽いことも要求される。艦自体の軽量化を図るのと同時に砲身の上げ下げを自在にするためだ。
鉄の強度を増した鋼棒を中グリ盤で穴を削り出して筒を造る旋盤、各筒を嵌め込む嵌合(かんごう)という精緻な鋼材組み合わせの技術が要求される。
「大和」を知る、ということは砲身を理解することなのだ。「大和」の技術は砲身に凝縮されている。
海底の「大和」調査は1982年から4回、行われた。その度に呉市史編さん室では「砲身が揚がるといいのだが」と期待したものだ。
呉市の大和ミュージアムは戰艦陸奥の主砲、41センチ砲を陳列している。「大和」の主砲を並べてみたい、というのが呉市関係者の悲願だが、今の所実現の可能性はない。
「大和」の技術の頂点に立つ砲身だが、戦後の発展にとって一番役に立たなかった技術は砲身技術だ、と呉市民はよく言う。プロパンガスのボンベの製造に役だったくらいだ、と自嘲気味に話す。
呉市の企業、中国工業は1955(昭和30)年、LPガス容器の製作に成功し、トップメーカーとなった。①
鉄の強度を増した鋼棒を中グリ盤で穴を削り出して筒を造る旋盤、各筒を嵌め込む嵌合(かんごう)という精緻な鋼材組み合わせの技術が要求される。
「大和」を知る、ということは砲身を理解することなのだ。「大和」の技術は砲身に凝縮されている。
海底の「大和」調査は1982年から4回、行われた。その度に呉市史編さん室では「砲身が揚がるといいのだが」と期待したものだ。
呉市の大和ミュージアムは戰艦陸奥の主砲、41センチ砲を陳列している。「大和」の主砲を並べてみたい、というのが呉市関係者の悲願だが、今の所実現の可能性はない。
「大和」の技術の頂点に立つ砲身だが、戦後の発展にとって一番役に立たなかった技術は砲身技術だ、と呉市民はよく言う。プロパンガスのボンベの製造に役だったくらいだ、と自嘲気味に話す。
呉市の企業、中国工業は1955(昭和30)年、LPガス容器の製作に成功し、トップメーカーとなった。①
戦艦大和の船殻を造った建艦技術は戦後、巨大タンカーを次々と呉の船台から送り出した。
「大和」に比べりゃあ、タンカーのどんがら(船殻)は紙細工のようなもんじゃけーと「大和」設計陣の一人で呉市出身の西畑作太郎さんは話す。
15メートル測距儀のレンズからはカメラが生まれた。
相手艦からの砲弾命中に耐える鋼板繋ぎの鋲打ちの強度を知るためにドイツから大型試験機を輸入したが、この引っ張り強度の試験機は戦後、瀬戸内海の本四架橋の吊り橋強度の測定に大活躍した。
呉海軍工廠の工場群を最適な組み合わせにして物流を円滑にし、増産、品質管理を図り、ブロック建造を採用して工期短縮を実現したが、戦後の家電、重機の大量生産に応用された。
「大和」に集約した各種技術は戦後の経済復興に大きな力となったが、その多くは呉市には種を落とすことなく去った。呉市は工業地帯として発展することなく、呉市は敷地を提供しただけにとどまった、呉市は海軍の寄宿舎だった、とは千田武志・元呉市史編さん室長の言うところだ。
砲身の製造技術とガスボンベの関係は不明だが、呉市民のいう「呉市に与えられた大和の遺産はガスボンベしかない」は軍事都市の宿命でもあるのだ。
しかし、プロパンガスのボンベは戦後日本の地方にエネルギー革命を起こし、生活様式を変えた。農山漁村の生活は便利になったが、薪や炭を取らなくなった里山の森林は放置された。戦後75年を過ぎた今、伸びきった里山の木々は倒木、流木となって土砂災害の主役として登場してきた。
戦艦大和を追ってきた私には、強風による倒木、河川の流木被害のニュースを聞く度に「大和」の巨砲が因果の一つとして見えてくる。
「大和」に比べりゃあ、タンカーのどんがら(船殻)は紙細工のようなもんじゃけーと「大和」設計陣の一人で呉市出身の西畑作太郎さんは話す。
15メートル測距儀のレンズからはカメラが生まれた。
相手艦からの砲弾命中に耐える鋼板繋ぎの鋲打ちの強度を知るためにドイツから大型試験機を輸入したが、この引っ張り強度の試験機は戦後、瀬戸内海の本四架橋の吊り橋強度の測定に大活躍した。
呉海軍工廠の工場群を最適な組み合わせにして物流を円滑にし、増産、品質管理を図り、ブロック建造を採用して工期短縮を実現したが、戦後の家電、重機の大量生産に応用された。
「大和」に集約した各種技術は戦後の経済復興に大きな力となったが、その多くは呉市には種を落とすことなく去った。呉市は工業地帯として発展することなく、呉市は敷地を提供しただけにとどまった、呉市は海軍の寄宿舎だった、とは千田武志・元呉市史編さん室長の言うところだ。
砲身の製造技術とガスボンベの関係は不明だが、呉市民のいう「呉市に与えられた大和の遺産はガスボンベしかない」は軍事都市の宿命でもあるのだ。
しかし、プロパンガスのボンベは戦後日本の地方にエネルギー革命を起こし、生活様式を変えた。農山漁村の生活は便利になったが、薪や炭を取らなくなった里山の森林は放置された。戦後75年を過ぎた今、伸びきった里山の木々は倒木、流木となって土砂災害の主役として登場してきた。
戦艦大和を追ってきた私には、強風による倒木、河川の流木被害のニュースを聞く度に「大和」の巨砲が因果の一つとして見えてくる。
① 呉市史編纂室編「呉の歩み」=呉市1989年刊
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
問い合わせ、ご指摘、ご意見はCONTACTよりお願いします。
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