紀州藩士の妻がつけた「小梅日記」はペリー艦隊の情報を詳しく書き綴る。黒船衝撃が江戸から遠い紀州にどう伝わったか、を知る好資料だ。「黒船脅威」が日本海軍の戦艦固執を生み、その先に戦艦大和がある、とみる私は「小梅日記」に関心をもつ。
小梅の情報源は藩校の先生にあたる職にいた夫らしい。が、小梅日記のどこにも「夫からの話によると」という出所の記述にない。多分、情報源を秘匿しようとしたのだろう。そのほか、藩から回ってくる連絡物を書き写した。
「小梅日記」のペリー艦隊に関する記述について和歌山市の市民団体「小梅日記を楽しむ会」(中村純子会長、27人)の井上泰夫会員がまとめ、2014(平成26)年11月26日の例会で「紀州の海防」と題して発表した。①
「小梅日記」のペリー艦隊に関する記述について和歌山市の市民団体「小梅日記を楽しむ会」(中村純子会長、27人)の井上泰夫会員がまとめ、2014(平成26)年11月26日の例会で「紀州の海防」と題して発表した。①
その発表資料を基に「黒船」に対する紀州藩や和歌山城下の動きを見る。
ペリーが浦賀に来航して12日後の1853(嘉永6)年6月15日、「小梅日記」は
…廻状来るよし也。此度ふらんす船来り候に付、めいめい相心得居候様にとの事。岩はしへ廻す。…
と記す。
アメリカの船を「ふらんす船」と誤認しているが、紀州藩は回状をまわして各藩士に心構えをもつようにと連絡した、という。
川合家はこの回状を読んだ後、岩橋家へ届けた。当時、情報は回し読みで伝えていた様子がうかがえる。
同17日には、「異国船の大騒動で紀州藩からも御かため(防衛)のため江戸へ人を出した。異国人の望みは伊豆大島を借りたい、かなわなければ武力に訴えるという。90間(約180m)の船に3千人ほどが乗り組み、船は山の如くに見える…」などと続報を書く。
ペリー艦隊は4隻から成り、その中心はサスケハナ号という蒸気外輪船だった。蒸気力と帆を併用して動力とした。
当時、日本の大船は千石船だが、サスケハナ号は大きさからいって20倍もあり、帆を張らなくても動いた。「山の如くに見える」と和歌山まで届いた伝聞は誇張ではない。
ペリーが浦賀に来航して12日後の1853(嘉永6)年6月15日、「小梅日記」は
…廻状来るよし也。此度ふらんす船来り候に付、めいめい相心得居候様にとの事。岩はしへ廻す。…
と記す。
アメリカの船を「ふらんす船」と誤認しているが、紀州藩は回状をまわして各藩士に心構えをもつようにと連絡した、という。
川合家はこの回状を読んだ後、岩橋家へ届けた。当時、情報は回し読みで伝えていた様子がうかがえる。
同17日には、「異国船の大騒動で紀州藩からも御かため(防衛)のため江戸へ人を出した。異国人の望みは伊豆大島を借りたい、かなわなければ武力に訴えるという。90間(約180m)の船に3千人ほどが乗り組み、船は山の如くに見える…」などと続報を書く。
ペリー艦隊は4隻から成り、その中心はサスケハナ号という蒸気外輪船だった。蒸気力と帆を併用して動力とした。
当時、日本の大船は千石船だが、サスケハナ号は大きさからいって20倍もあり、帆を張らなくても動いた。「山の如くに見える」と和歌山まで届いた伝聞は誇張ではない。
ペリーは6月3日から同12日まで浦賀に滞在したが、「小梅日記」は7月20日まで6回、日記に記す。
7月20日の項では「このたびのアミリカ(アメリカ)舟、書簡の返事を来年3月に受け取りにくる。幕府より儒者に27日までに意見を出すよう求めてきた。同書簡を美濃紙に写す」とある。
幕府は紀州藩の儒者に対案を聞いてきた。意見を求めた範囲は御三家に限ったのか、もっと広くだったのかはわからない。各地の国立大学の学長や教授に相談するようなものだ。
紀伊半島に徳川御三家の一つ、紀州藩を置いた理由として京都の朝廷を護るため大阪湾を封鎖するなど海上警備のためと言われる。
ペリーが去った後、藩は防備態勢の強化に乗り出した。各藩士に武装を整え、鉄砲、弓矢の調練を求めた。その様子を「小梅日記」は子細に書く。
7月20日の項では「このたびのアミリカ(アメリカ)舟、書簡の返事を来年3月に受け取りにくる。幕府より儒者に27日までに意見を出すよう求めてきた。同書簡を美濃紙に写す」とある。
幕府は紀州藩の儒者に対案を聞いてきた。意見を求めた範囲は御三家に限ったのか、もっと広くだったのかはわからない。各地の国立大学の学長や教授に相談するようなものだ。
紀伊半島に徳川御三家の一つ、紀州藩を置いた理由として京都の朝廷を護るため大阪湾を封鎖するなど海上警備のためと言われる。
ペリーが去った後、藩は防備態勢の強化に乗り出した。各藩士に武装を整え、鉄砲、弓矢の調練を求めた。その様子を「小梅日記」は子細に書く。
① 井上会員は1930(昭和5)年生まれ。地元の紀陽銀行に勤め、退職後は同楽しむ会が2007(平成19)年発足と同時に参加。「小梅日記」を現代文に読み下す作業を続けている。90歳になった2020(令和2)年9月、「『小梅日記』にみる慶応3年(1867)の日々」と題する最近作をまとめた。
② パートナー教授(62)は近代と現代の日本の歴史、特に日常生活の歴史を専門分野とし、2019年8月から国際日本文化研究センター外国人研究員として来日。研究テーマは「維新前後の武家女性史―川合小梅を事例に」。これまでに明治維新期の横浜商人、日露戦争下の日本の農村生活などをテーマにした著作、論文がある。
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