波頭066
 

Ⅲ部 建造 40

闇夜に提灯

 1936(昭和11)年、海軍内で谷恵吉郎・造兵大佐はレーダー開発を提案したが、「闇夜に提灯である」として退けられた。戦後、そのいきさつを水交会機関紙「水交」1983(昭和58)年8月号「電波兵器不振に対する反省」で書いた。
 戦艦大和起工の前年にあたり、広島県呉市では建造ドックに大屋根をかぶせたり、鉄道線路際に軍港が見えないように高塀を張り巡らしていた。
 谷氏の文章を続ける。
……
 その当時、私は(海軍技術研究所電気研究部第一科主任であり、)特許局審査官を兼務しており、外国からの特許出願書類をみて、新技術の発展動向を膚で感じる機会に恵まれていた。
 それによって、現在のレーダーのような電波による索敵兵器の実現可能なことを信ずるに至った。
 これを新研究問題として採用されたい、と電気研究部長に提案した。
 ところが同部長の言われるには

「自分で電波を出して敵を見つけようとするものは、奇襲によって勝機を掴もうとする、我が海軍伝統の戦術に全く背馳するものである。
闇夜に物を探すのに、提灯をつけて歩きまわるようなもので、敵を索める前に自分の正体を暴露し、自分が先にやられてしまう。
そんなものをやるより、ノクトビジョン(暗視装置)の研究に努力すべきだ」

とのことだった。
 私も海軍大演習を度々見学しており、その他の機会もあって、海軍伝統の戦略戦術を門前の小僧式に生かじりながら知っていたので、部長の言うことももっともである、と受け止めた。また、能弁の誉高いこの部長には、弁舌ではかなわぬとの先入観もあって、そのまま引き下がってしまった。
 今にして悔やまれるのは、なぜいま一度、探照灯を例に持ち出し、粘り強く食い下がってみなかったか、さらに軍令部あたりの用兵者にも話しかけて、認識の輪を拡げてみなかったのか、と残念に思うのである。あの時は「鹿を追う猟師、山を見ず」の譬えどおりまったく近視眼的であったと思う。

 それから5年後の1941(昭和16)年2月、イタリア海軍から「地中海海戦で、暗夜に、英海軍が用いる電波利用兵器によって手痛い目にあった」旨の情報が入手された。
 当時、私は横須賀海軍工廠通信実験部長の職にあったが、これを聞き、「先年提案した電波索敵兵器がいよいよ戦場に現れたか。もはや躊躇すべきではない」と思い、早速上京して艦政本部に出頭。第三部首席部員に面会して、「最も重視すべきものであるから、従来の研究部と実験部との間の所掌区分の埒を越え、横須賀でもこれの研究を始めたい。承認してほしい」と述べた。
 返答は「通信実験部にはやるべき仕事があるではないか。それをやめてまでやる必要はない」と対応しようとしなかった。
 その当時、イタリア海軍情報に対する部内の認識は、開戦前とはいえ、誠に甘いものであった。
 事なかれ主義が横溢している中で、第三部長に同じことを言っても無駄であろう、と諦め、それなりで引き下がった。
……

 谷大佐は2度にわたってレーダー開発着手を訴えたが、最初は攻撃一辺倒の神がかり的な信奉に跳ね返され、その次は新奇事業を嫌う組織悪(事なかれ主義)に門前払いとなってしまった。

 「闇夜に提灯」論に戦後、旧海軍のレーダー兵器開発関係者たちが言及している。敗戦後、「敗因はレーダー」説が沸き起こった。これに当時の担当技術者が応える背景がある。
 筆者は関係者5人の記述を読んだ。当時の海軍が大艦巨砲、攻撃一辺倒の戦術にこり固まり、レーダー開発を訴える技術者に聞く耳を持たなかった、といずれも共通する慨嘆があった。
 「闇夜に提灯」論の初出と思われる指摘が戦後6年という早い時期に現れた。1951(昭和26)年9月、電波監理委員会が刊行した日本無線史第10巻海軍無線史の「第十二節 電波兵器」のなかの記述(380ページ)だ。

呉海軍工廠造船ドックの階段。記念碑として「歴史の見える丘」に建立されている。同ドックから戦艦大和、長門、戦後は世界初の10万トン級タンカー「ユニバースアポロ」がうまれた=広島県呉市宮原5丁目で2024年2月27日撮影
呉海軍工廠造船ドックの階段。記念碑として「歴史の見える丘」に建立されている。同ドックから戦艦大和、長門、戦後は世界初の10万トン級タンカー「ユニバースアポロ」がうまれた=広島県呉市宮原5丁目で2024年2月27日撮影

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