波頭067
 

建造 41

レーダー空白5年

 「レーダーは実に、戦争の全期間を通じ、艦船、航空機、潜水艦の別なく、また空中と地上を問わず、晴雨昼夜の差別なく、あらゆる場面で攻防両面の重要兵器となった」

 太平洋戦争中、海軍軍令部通信課長としてレーダー戦の一翼を担った鮫島素直氏(兵48)が戦後、私家版の回顧録で述べた。➀

 そのレーダーの研究、整備に日本海軍が着手したのは1941(昭和16)年6月ごろだという。太平洋戦争直前だ。戦艦大和が竣工する半年前だ。

 1951(昭和26)年9月、電波監理委員会が刊行した日本無線史第10巻海軍無線史の「第十二節 電波兵器」のなかの記述(380ページ)によると、

 ……電波深信儀(注 レーダー)の研究ならびに整備に着手したのは、太平洋戦争直前の昭和16年6月ころである。当時、ドイツ空軍による英本土空襲が激化し、これに困り抜いた英がかねて研究していたラジオ・ロケーターを実戦に応用して、その威力を発揮したという英政府の公式発表があって、海軍部内において俄然、本問題(注 レーダー)に対する要求が熾烈となり、急きょ、研究に着手したのである……➁

とある。

 谷恵吉郎大佐がレーダー研究を提案して「闇夜に提灯」と一蹴されてからまる5年後のことだ。日本海軍は「この一言」でレーダー開発に5年の空白をつくったのだ。

 同書によると、海軍はこれ以前にも類似の研究は細々と行っていたが、100km以上先の飛行機の様な小さい物体に電波を当てて反射波を得るなど考えも及ばず、1kmか2km程度の先の軍艦ならば電波で探知できるであろう、という観点に立って研究を進めていた。

 なぜ、日本海軍のレーダー研究は進まなかったのか。

 「これに関し次のような事実があった」と同書は「闇夜に提灯」説を紹介する。戦後6年、敗因を求める生々しい感情が残っている時の文章だ。

 ……海軍技術研究所電気研究部において、部の編成替えを1936(昭和11)年に行って、基礎的研究を兵器研究から分離し、これを第一科において行うことに定め、この第一科においていわゆる新兵器を研究発明させようとの考えであった。第一科主任に当たった技術官は色々と新兵器の着想を考えもし、また多数の関係技術者、学者などからもその構想や意見を集めた。

 その結果、テレビジョン式に集射式で超短波を発射し、これを敵艦隊に当て、その反射波を利用して敵艦隊の所在、ならびにその隊形を知る深信儀ならば当時の技術で実現可能である、との結論を得て、第一科で研究しようとした。

 が、時の部長は、これを価値なきものとして、着手を認めることを拒んだ。

 その理由とするところは

 「敵艦を探知するのに自分で電波を発射するのは、あたかも闇夜に物を探すのに提灯を用いるごときものである。

物を探し当てることは出来るかも知れないが、その前に自分の所在を暴露するものである。

隠密行動を必要とする海軍においては実用価値のないものだ」

というにある。

 けだし、当時は海軍一般の思想は大艦巨砲主義であり、敵艦隊を太平洋上に求め、奇襲部隊を以てする漸減作戦の後、有利な態勢の下に彼我主力の対抗を導き、敵主力を撃滅する作戦の一途に全海軍の能力を集中している情勢なので、前記の理由もなるほど、と考えさせられるものがあり、第一科主任もそれ以上自説を主張することなく引き下がった……

 文中の「第一科主任に当たった技術官」が谷恵吉郎・造兵大佐(41)であることは、谷氏が1983(昭和58)年、旧海軍士官の親睦団体水交会の機関誌「水交」同年8月号に寄稿した「電波兵器の不振に対する反省」で自ら名乗っているのでわかる。

 「闇夜に提灯」説について、初出の1951(昭和26)年から24年後の1975(昭和50)年、雑誌「兵器と技術」同年9月号=日本防衛装備工業会刊=に松井宗明氏が「日本海軍の電波深信儀研究の概要―その一」で言及した。

 松井氏は兵学校62期出身で戦艦武蔵、大和にレーダー取り付けで乗り組み、海軍技術研究所部員となり、終戦時は少佐だった。戦争の最中、現場でレーダーの兵器化を任務とした少壮士官だ。

 ……1936(昭和11)年、海軍技術研究所電気研究部の組織が改組され、第1科(将来研究担当)が創設され、主任谷恵吉郎大佐は各技術分野の意見を総合して、現在の電探とほとんど同様な索敵兵器の実現可能なことを提案したが、

「索敵兵器としては、自己より電波を発振することは、奇襲を基調とする海上作戦において自己位置を暴露するので不適であり、‘‘ノクトビジョン’‘(暗視装置)の研究の方がはるかに重要である」

との理由で却下されている……

 初出の海軍無線史の記述と内容はほぼ同じだが、レーダー研究を訴えた第一科主任が「谷恵吉郎」と名前を明らかにし、「闇夜に提灯」逸話の信ぴょう性が高いことを示した。

 呉市散歩。
旧呉工廠砲熕部精密兵器工場だったが、今はダイクレ第二工場という民間の現役として稼働。重厚なたたずまいを残す=呉市昭和町で、2014年4月6日撮影
旧呉工廠砲熕部精密兵器工場だったが、今はダイクレ第二工場という民間の現役として稼働。重厚なたたずまいを残す=呉市昭和町で、2014年4月6日撮影
赤レンガの工場脇を空襲の合間に退避する学徒動員の少年少女ら=矢岡壮介氏描く。1995年9月、呉市戦後50年記念展に展示。
赤レンガの工場脇を空襲の合間に退避する学徒動員の少年少女ら=矢岡壮介氏描く。1995年9月、呉市戦後50年記念展に展示。
 呉市昭和町、ダイクレ呉第二工場は呉海軍工廠の工場として1903(明治36)年に建設された。呉工廠発足と同じ年だ。鉄骨造りで壁は赤レンガ張り、大きな窓は御影石で縁取りされ、特別な建物という印象を与える。呉工廠時代は砲熕部精密兵器工場だった。工員は下駄ばきの生活や藁葺き屋根の自宅から一足飛びに赤レンガの近代建築の工場で働くので誇りをもっただろう。建設後120年以上経つが、今も現役で、グレーチングという側溝に被せる格子状の蓋をつくっている。

 文化庁は2016年4月、「日本近代化の躍動を体感できるまち」として旧軍港4市の海軍関係の遺跡を日本遺産に指定。ダイクレ呉第二工場はその一つとして取り上げられた。

 現役工場なので立ち入っての観察はできないが、紹介パンフレットなどによると、赤レンガの壁には機銃掃射を受けた弾痕が多数残っているという。

 同工場の隣が製鋼部鋳造工場で、1944(昭和19)年後半から学徒動員の少年少女が働いていた。その一人、大分市の大分師範から動員で呉工廠に来た矢岡壮介氏は戦後、東京の中学校で美術教師になったが、50年の節目に呉市からの依頼で呉工廠の学徒動員の生活を24枚の絵にした。

 その一枚が赤レンガの工場脇を空襲から逃げる学徒動員の生徒たちだ。「横穴避難壕へお互いをかばいつつ走る学徒たち。既に上空に米軍機ロッキードP-38が飛来している」と説明が付く。工場の屋根すれすれに飛び去る米軍機が描かれている。

 「近代化を体感」と評価されるが、「学徒動員の少年少女が空襲から逃げる戦争体験を体感」を付け加えたい。

➀鮫島素直著「元軍令部通信課長の回想━日本海軍通信、電波関係活躍の跡━」=1981(昭和56)年、私家版
➁同じ海軍無線史の別の個所では日本海軍がレーダー研究に本格着手した日付を「昭和16年3月ごろ」としている。「第13節太平洋戦争中の無線の活用」115ページ。いずれにしてもレーダー開発は1941(昭和16)年に入ってからの話だ。

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