波頭063
 

Ⅲ部 建造 37

雑誌「改造」

 戦艦大和は1937(昭和12)年11月4日、広島県呉市の呉海軍工廠で起工された。
 その4カ月前の7月7日、廬溝橋で日中両軍が衝突、日中戦争が始まった。
 呉市内の様子を「重苦しい軍港街」と題して「大呉市民史昭和編(中巻一)」は伝える。
 ……号外、ラジオに戦争気分横溢、緊張の空気みなぎり、弾除け千人針の一針を行人に乞う老婦、少女も街頭に、日ごと数を増す……(229ページ)
 軍港呉市で「弾除け千人針に一針を」と街頭で通りがかりの人に赤い糸で運針を求める女性の姿が日ごとに増えてきた。老婦は息子の、少女は父親の、無事帰還を願って白布を差し出すのだ。
 「大呉市民史同」の同年7月の項(194ページ)に「雑誌の発禁、削除続く」がある。
……
 22日、「改造」9月号、内務大臣指令によって一部削除、呉署特高係、呉駅着を待って総動員、1010冊にわたり、鋏(はさみ)をいれる。
 24日、「中央公論」9月号、市内22店の280部(千部近くは既に販売済み)を片っ端から削除。
 「婦人公論」9月、「結婚前の恋愛号」不謹慎のものあり、と発売禁止に。呉署28日、各書店から押収。指令が遅れて、既に千部は売り捌かれ、200部押収。
 東京大地社発行「奥の奥」9月号も発禁。9月1日、押収に向かったが、前月16日の発売で、残部は僅かに8冊。
 10月号「モダン・ローマンス」、一部削除。「支那の男と女」「日本経済の研究」ともに発禁。
 10月30日、日本犯罪科学研究社発行「犯罪実話」第11号、呉駅で56部押収。
……
 呉駅で警察官が雑誌の問題個所をはさみで切り取っている様は、地方都市で行われた言論封殺の現場で、生々しい描写だ。
戦前の呉駅=呉市史編纂室編「呉の歩み」から
戦前の呉駅=呉市史編纂室編「呉の歩み」から
最近の呉駅=2024年2月26日撮影
最近の呉駅=2024年2月26日撮影
 「改造」9月号の一部削除の件は、「雑誌『改造』の四十年」(光和堂1977年5月刊)が詳しく記録している。同誌の元編集部員だった関忠果(ただたけ)氏らが編集した著作だ。
 同誌によると、当時、内務省警保局は雑誌を発売前に検閲し、不適当と認めた部分は削除を命じた。その通達のくるころには、雑誌は東京では書店に配られている。それで雑誌社の社員は印刷所、製本所、取次店に応援を頼んで店頭をまわり、命ぜられた部分を切り取り、地方発送分は梱包を解いて切り取り、表紙に「切取済」の印を押して後、発送した。原稿の事前検閲は、原則としておこなわれなかった。
 切り取りは発行社が行っていたが、間に合わない時は司直が出動したことが呉駅の様子でわかる。
 問題とされた記事は巻頭論文として掲載された大森義太郎の「飢ゆる日本」。この論文は全文削除の処分を受け、しかも題名の「飢ゆる日本」が刺激的であるというので、目次まで切り取られた
 「飢ゆる日本」はどのような内容だったのか。(筆者注 論旨が頭に入りやすいように改行しました)
 「戦争の進展にともない、日本経済の重工業化が進められているが、
それは果たして満足に遂行され得るか、
それは戦時下の日本経済の行き詰まりを打開し得るか」
と問題提起をし、
「重工業化が所期のように遂行されたとしても、その後の日本経済の展望は少しも多幸のものではない。
国民がブルジョワ代弁人の説得に耳を傾けて、営々として日本経済の重工業化の仕事につとめ、今日の困難な経済情勢を忍ぶことはたいへんいい。
ただ、3、4年の後に
━ブルジョワ代弁人達はよく、3、4年の後、ということをいう━
日本経済の繁栄が到来し、そのときは彼らの生活が大変楽になるだろう、などという幻想だけは棄ててかかる必要がある!」
と結ぶ。
 「雑誌『改造』の四十年」の解説。
 ……ここに大森がいう「重工業化」とは「軍事工業化」のことで、そう読みかえてみれば、論旨は一層ハッキリするであろう。……

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