午前5時半に鳴る1回目のサイレンは「起こし」という。工員の妻に朝支度を急がせる。同6時半、2回目。工員に出勤を促す。広島県呉市にあったアジア有数の大軍事工場、呉海軍工廠の3ヶ所からサイレンが鳴り響き、軍都の朝が明ける。➀
戦前の話だ。サイレンは呉市一円に響いた。市民生活は呉工廠を中心に回っていた。
始業は午前7時。しばらくして呉工廠内から一大音響が沸き上がる。鋲うちが始まったのだ。
鉄板をつなぎ合わせて軍艦の艦体、船殻をつくる。今は溶接が鉄板を繋ぐが、当時は鋲を打ち込んで鉄板を繋ぎ合わせていた。軍艦は砲弾を受けても耐えるように鉄板は強度を高めた甲鈑を使うので、鋲うちの仕事はさらに腕前を必要とする。
鋲うち工員の多くは鋲をリベットと呼んだ。
1938(昭和13)年に入ると鋲うちの音は一層大きくなった。呉工廠の造船ドックから約300mしか離れていない呉市立神原(かんばら)小学校(今の宮原小学校)は高台にあるため、大音響は湧き上がって直撃してきた。
午前8時半、朝会。全校児童約2500人を前に校長は話すが、鋲打ちのガチャガチャガチャガチャというものすごい騒音で聞こえない。
校長はマイクで話した。携帯マイクで当時は高価なものだったが購入した。それでも後ろにまわると聞こえない。
正午になったら鋲うちはピタッと止む。ドンピシャと止む。午後1時まで静か。
1937(昭和12)年には教室の港側の窓に板張りの目隠しが取り付けられた。3階建ての校舎の2、3階の、各階12カ所、計24カ所の窓が覆われた。
呉工廠の現場や呉軍港を見ることができなくなった。
戦前の話だ。サイレンは呉市一円に響いた。市民生活は呉工廠を中心に回っていた。
始業は午前7時。しばらくして呉工廠内から一大音響が沸き上がる。鋲うちが始まったのだ。
鉄板をつなぎ合わせて軍艦の艦体、船殻をつくる。今は溶接が鉄板を繋ぐが、当時は鋲を打ち込んで鉄板を繋ぎ合わせていた。軍艦は砲弾を受けても耐えるように鉄板は強度を高めた甲鈑を使うので、鋲うちの仕事はさらに腕前を必要とする。
鋲うち工員の多くは鋲をリベットと呼んだ。
1938(昭和13)年に入ると鋲うちの音は一層大きくなった。呉工廠の造船ドックから約300mしか離れていない呉市立神原(かんばら)小学校(今の宮原小学校)は高台にあるため、大音響は湧き上がって直撃してきた。
午前8時半、朝会。全校児童約2500人を前に校長は話すが、鋲打ちのガチャガチャガチャガチャというものすごい騒音で聞こえない。
校長はマイクで話した。携帯マイクで当時は高価なものだったが購入した。それでも後ろにまわると聞こえない。
正午になったら鋲うちはピタッと止む。ドンピシャと止む。午後1時まで静か。
1937(昭和12)年には教室の港側の窓に板張りの目隠しが取り付けられた。3階建ての校舎の2、3階の、各階12カ所、計24カ所の窓が覆われた。
呉工廠の現場や呉軍港を見ることができなくなった。

横から見ると隙間があり、工廠内の様子をうかがい知ることができた。その隙間から造船ドックを見つめる先生がいた。
河西正先生だ。広島師範社会科を卒業して1931(昭和6)年―1970(昭和45)年の38年間、呉市で教職に就き、最後は二河小学校の校長を務めた。
神原小学校には1938(昭和13)年4月1日―1941(昭和16)年3月31日、勤務。26歳から29歳にかけての時だった。
造船ドックには大屋根がかぶさり、周囲はシュロ繩を垂らして外から作業の様子が見えないようにしていた。が、シュロ繩の間を通して赤い線が飛ぶのが見えた。真っ赤に熱した鋲を下から放り上げて鋲うち現場に届ける作業だ。赤い球が届くと、すかさず鋲うちの甲高い音が響いて来る。火線はドックの両側から数十本も上がった。火線は途切れることなく舞い上がっていた。まるで幕のようだった。
河西先生は同校に3年間、赴任したが、子どもが帰った後、目隠し板の隙間から造船ドックを見ることが日課となった。火線の本数は異常に多く、普通のフネでは考えられない高さにまで飛んだ。そのうち、三つの大きな穴が空いた甲板が現れた。得体の知れない巨艦が船台に立ち上がりつつあるようだった。
河西先生は隙間から見た光景は黙っていたが、校内の先生の間で
「穴の大きさから主砲は3連装だろう、見たこともない大ブネじゃ」
と誰言うこともなく広がった。そのうち、「一号艦」「大和」という名前がささやかれ始めた。➁
河西正先生だ。広島師範社会科を卒業して1931(昭和6)年―1970(昭和45)年の38年間、呉市で教職に就き、最後は二河小学校の校長を務めた。
神原小学校には1938(昭和13)年4月1日―1941(昭和16)年3月31日、勤務。26歳から29歳にかけての時だった。
造船ドックには大屋根がかぶさり、周囲はシュロ繩を垂らして外から作業の様子が見えないようにしていた。が、シュロ繩の間を通して赤い線が飛ぶのが見えた。真っ赤に熱した鋲を下から放り上げて鋲うち現場に届ける作業だ。赤い球が届くと、すかさず鋲うちの甲高い音が響いて来る。火線はドックの両側から数十本も上がった。火線は途切れることなく舞い上がっていた。まるで幕のようだった。
河西先生は同校に3年間、赴任したが、子どもが帰った後、目隠し板の隙間から造船ドックを見ることが日課となった。火線の本数は異常に多く、普通のフネでは考えられない高さにまで飛んだ。そのうち、三つの大きな穴が空いた甲板が現れた。得体の知れない巨艦が船台に立ち上がりつつあるようだった。
河西先生は隙間から見た光景は黙っていたが、校内の先生の間で
「穴の大きさから主砲は3連装だろう、見たこともない大ブネじゃ」
と誰言うこともなく広がった。そのうち、「一号艦」「大和」という名前がささやかれ始めた。➁


➀「呉海軍工廠電気実験部の記録」71ページ=1978(昭和53)年5月、電実会(古里一十会長)が自費出版
➁この項は1992(平成4)年7月26日呉支局で呉市愛宕町、河西正氏(当時80歳)インタビューで構成
➁この項は1992(平成4)年7月26日呉支局で呉市愛宕町、河西正氏(当時80歳)インタビューで構成
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
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