1851(嘉永4)年4月12日の項
…げい子等、じゅばんひぢりめんにて黒五日市のぱっちはき、白ちりめんの三尺帯、髪も男まげ(髷)にて行き候よし…
芸者衆は、真っ赤なちりめん肌着に真っ黒な絹織物「黒五日市」の股引きをはき、白ちりめんの三尺帯でしめた。まげは男まげに結っている、との話だ…
和歌山市梶取(かんどり)の総持寺が鐘撞堂を新築し、そのお祝いに人が出た。その時の模様を聞き書きした。
芸者衆の衣裳はいずれも絹織物で、肌着と白帯はちりめん、股引きは「黒五日市」というこれも絹織物の輝く黒。帯は長さ約90センチといなせな職人が好む短めだ。
「黒五日市」は江戸中期、今の東京都あきる野市五日市町で生産された泥染めで、一般には黒八丈と呼ばれる。明治中期以降はすたれたが、最近復活した。小梅日記では「黒五日市」の名前で知られていた様子がうかがえる。渋い黒を粋筋の女性が好んだ。
歌舞伎の役者絵から抜け出たようないでたちだ。男伊達を競う旗本奴といった風情を芸者が男装して見せる。しかも集団で登場した。
女が男の恰好となり、下着姿を誇示する。当時の儒教的な道徳であった長幼の列、男女の別などとは逆の形をとって芸者衆が繰り出した。社会的規範や道徳に反するという倒錯の行動を示す。
黒、白、赤の三色が輝く絹地の衣装を話し手が興味深く取り上げたのか、小梅が細かく聞きだしたのか、どちらにしても小梅は目に浮かぶように具体的に「総持寺の芸者衆」を描写している。
この三色は歌舞伎の色だ。今、歌舞伎座の幕の色は「黒、赤、緑」だが、江戸期には「黒、白、赤」を幕に使う有力な一座があった。
幕末期、歌舞伎は人気を呼び、地方では農村歌舞伎、小芝居を組んで興行した。中には兵庫県・播州の高室芝居のように各地を巡業する一座まで現れた。
歌舞伎という芸能は時代の変わり目に爆発的な人気を得る。幕末、戦前昭和、そして敗戦後の昭和20年代。不穏を秘めた歌舞伎の美意識が幕末の世相を彩っていた様子が小梅日記からうかがえる。
小梅(1804-89)は時代を見ていた人だ。同時期、北海道を探検し、アイヌの民俗を絵と文章で記録した松浦武四郎(1818-88)、雪国の生活をルポルタージュした「北越雪譜」の鈴木牧之(1770-1842)、日本全国を測量し、地図にした伊能忠敬(1745-1818)ら「見る人」「記録する人」に連なる人だ、と私は評価する。
幕末から約100年前のフランスで百科全書家の啓蒙活動がフランス革命(1789-99)の土壌をつくった。これに似て幕末の「見る」「記録する」人の活動が明治維新につながった、と私は見る。➀
しかし、明治以降の歴史がなぜ戦艦大和を産み出したのか。「見る」をどこで失ったのか。
「見る人」小梅の記述をもう少し追う。
➀百科全書家=百科全書の編纂に協力した18世紀の思想家、学者。ディドロ、ダランベール、マルモンテル、モンテスキュー、ヴォルテール、ルソー、ケネーら。その立場は主として合理主義的、懐疑論的、感覚論的、唯物論的。(広辞苑から)
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