ペリーの黒船が来航する1853(嘉永6)年の直前だ。江戸から遠く離れた紀州藩、今の和歌山県下でも徳川幕藩体制が揺らぎ始めた様子がうかがえる。明治維新の17年前にあたる
「小梅日記」は1851(嘉永4)年4月9日から18日にかけて4回、このにぎわいを書く。
同18日には小梅自身が総持寺に参った。総持寺に行くには和歌山城下から紀ノ川を舟で渡る。
同18日の項を筆者の意訳で読む。
…川原にありのごとく人が出て、渡し舟が危ない。早く帰ればすいているだろうと急いで戻ったが、行きしなより大勢の人がいて、3,4隻の舟はみな満杯で危ない。人は乗ろうと急ぎ、船頭は乗せまいと棒で舟を出そうとする。ますます危ない。川の水は少なく、上流に向かうことはできない…
渡し場の混乱を綴り、続いて人々の様子を観察する。
…板締め絞りの下着で踊り歩く人や女の子をふくめて14,5人がいる。女の格好をした男が2人。これは昨日、和歌橋(今の不老橋)完成の祭礼で餅つき踊りに出た人という。紫のちりめん手拭で顔をつつみ、目ばかり出している。誰かわからない。主人が北野へ行く途中、この男は大鈴木の門で踊っていて、よくよく見れば表具師だった…
「板締(いたじ)め絞り」とは染色法の一つで、文様を彫った薄板2枚から数枚に原糸や布を挟んで染料または抜染剤をかけて模様を作る。(広辞苑)
徳川幕府は度々、奢侈禁止令を出した。衣服に関しては色、柄模様を規制した。その禁止令を無視する「板締め絞り」の柄模様の下着を小梅は注目している。
「小梅日記」を読み進めると、
…この度の祭礼は賑やかにやるようにとのお達しもあったので、町はおおいに活気づいている。梶取に来た御殿の女中など、この盛況を一位様(治宝)に申し上げるというので皆いよいよ舞い上がり、大工町の手習いの師匠など子どもたちに肩脱ぎの襦袢で勢揃いさせるらしい。
刺しゅうで飾った板締め染めの衣装は、一人少なくとも1両はするそうだ。いったい師たる者はこうした華美な風を叱るべきなのに、今の世の中はすっかりこんなふうになってしまった。
また今日この頃、乞食(こつじき)を大勢目にするようになった。にもかかわらずどの人もどの人もまだ破れていない衣服を身に着け、不馴れな様子で歩く姿は見るのも辛い。(なぜこういうことになるのか)よくわからない光景である。
先頃の物価高の時とは違い、米は払底しているわけではない。どうやら威勢のよいところはますますよくなり、中から下は皆倒れるような世の中である…
一つの社会が維持できなくなる原因は格差の拡大があることは歴史が示す。17世紀のイギリスで起きたレベラーズ(水平派)、18世紀のフランス革命、20世紀のロシア革命しかり。社会は常に平等を求めて動く。
2010年代の日本では「トリクルダウン(したたり落ちる)」なる言葉が唱えられ、金持ちが消費して生じる波及効果を期待する政策が執られる。経済政策としては一理あるかも知れないが、富裕層優遇を先行させるので、「威勢のいいところはますますよくなり」と格差拡大を助長するのではないか。「トリクルダウン」は社会政策としては「世の中は常に平等を求める」という世界史の教えに反している。
1936(昭和11)年から翌年にかけて帝国議会に提案された戦艦大和の建造費を含む膨大軍事予算案は、「国防か、民力涵養か」を論点として論戦が交わされた。凋落の政党政治と後年言われるが、政党人はよく頑張った、と言える。後日、議事録をもとに足跡を追いたい。
が、結果は妥協となり、軍事予算は通過。戦艦大和は1937(昭和12)年11月4日、広島県呉市の呉海軍工廠で起工された。
翻って今日、2022(令和4)年でも防衛予算の額が膨らみ続けている。「バターか、大砲か」をよく考えないと、「小梅日記」の「中から下、みな倒れる」が現在でも再現する。
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