―余り不思議之事故、荒増申上候―
…余りに不思議なことなので、あらましを申し上げます。
…余りに不思議なことなので、あらましを申し上げます。
明治維新直前の冬、1867(慶応3)年11月13日、川合小梅は知人から京都の人々が起こしている乱痴気騒ぎを聞き、小梅日記に書き留めた。
女は男となり、男は女となり、色々趣向をこらした風俗は目をみはるほどの驚きだ。
三味線、太鼓、笛、鼓、鐘、鈴を思い思いにはやし立てて音曲を演奏し、ヨイジャナイカ、ヨイジャナイカ、ヨイジャナイカと言っては踊り、……
三味線、太鼓、笛、鼓、鐘、鈴を思い思いにはやし立てて音曲を演奏し、ヨイジャナイカ、ヨイジャナイカ、ヨイジャナイカと言っては踊り、……
幕末、紀州和歌山城下で武家の主婦が書き続けた「小梅日記」は日々の生活に加えて時代の動きも記す。その内容は固有名詞をしっかり書き、「和歌山県史近世」と「和歌山市史第二巻」に引用され、資料的な価値をもつ。➀
明治維新の前年、1867(慶応3)年の7月ごろから東海・近畿地方を中心に「エエジャナイカ」騒動が起こった。各種辞書、歴史書をみると、その形態を民衆の乱舞、熱狂的乱舞を伴う民衆運動、狂乱的民衆運動、大衆の乱舞、と表現する。➁
広辞苑第七版(岩波書店)によると、討幕運動が行われた時でもあり、「世直し」的様相を呈するものもあった、デジタル大辞泉(小学館)は、幕府の倒壊を目前にした世直し的な風潮を反映した騒動、と時代が転換する際に現れる特有の現象と見ている。
小梅日記は同年11月から12月にかけてこの騒動を6回記している。城下町の異常な興奮が同時進行で伝わる。
「明治維新」をどう位置付けるか。革命の素地はあったのか、その上前をはねた政治改革か。この「民衆の乱舞」が一つの論点になる、民衆が江戸幕府体制を変革する当事者となる可能性があった、と見て私は小梅日記を読む。
明治維新の前年、1867(慶応3)年の7月ごろから東海・近畿地方を中心に「エエジャナイカ」騒動が起こった。各種辞書、歴史書をみると、その形態を民衆の乱舞、熱狂的乱舞を伴う民衆運動、狂乱的民衆運動、大衆の乱舞、と表現する。➁
広辞苑第七版(岩波書店)によると、討幕運動が行われた時でもあり、「世直し」的様相を呈するものもあった、デジタル大辞泉(小学館)は、幕府の倒壊を目前にした世直し的な風潮を反映した騒動、と時代が転換する際に現れる特有の現象と見ている。
小梅日記は同年11月から12月にかけてこの騒動を6回記している。城下町の異常な興奮が同時進行で伝わる。
「明治維新」をどう位置付けるか。革命の素地はあったのか、その上前をはねた政治改革か。この「民衆の乱舞」が一つの論点になる、民衆が江戸幕府体制を変革する当事者となる可能性があった、と見て私は小梅日記を読む。
小梅日記では、「11月13日」に初めてその騒動に触れている。
以下は、「小梅日記」を楽しむ会の会員井上泰夫氏(1930年9月生)が2020(令和2)年9月に発表した「『小梅日記』に見る慶応3年(1867)の日々」の現代文読み下しと注釈に頼る。
日付は当時の太陰暦に従っているので、現在の太陽暦で見ると約1カ月のずれがある。小梅日記の「11月」は今の12月にあたる。
以下は、「小梅日記」を楽しむ会の会員井上泰夫氏(1930年9月生)が2020(令和2)年9月に発表した「『小梅日記』に見る慶応3年(1867)の日々」の現代文読み下しと注釈に頼る。
日付は当時の太陰暦に従っているので、現在の太陽暦で見ると約1カ月のずれがある。小梅日記の「11月」は今の12月にあたる。
「11月13日」の項
書き始めは
―極快晴、暖晴。雄輔出勤、主人、加納氏へおしへに行。直に帰る―
(すばらしい快晴で、穏やかな日和。息子の雄輔は登城し、夫の豹蔵は加納様へ教えに行ったが、直ぐに帰宅した)
と、まずは家人の動きを書き
田中善蔵殺害の続報を記す。紀州藩内の改革派だった田中善蔵が暗殺された事件で、小梅は犯人5人の名前と預け先を詳細に記録している。
次いで田中善蔵の息子から父親の不慮の死を知らせる手紙を受け取る。その手紙の内容を書き写す。
夕方、夫の友人二人が小魚などを持ってきたが、夫は留守だったので茶菓を出して帰りを待ち、夫が帰宅後は一献、帰った。しばらくしてまた一人来たので残り物でまた一献。来客の名前をきちんと書いている。
次いで家の修理で業者と交渉する。表の窓がある一間の戸一枚と障子2枚の修理を猪之助に頼むが、六百五十目で請け負うという話にそれでは高過ぎると、商談不成立。
細々とその日の出来事を書いているうちに「エエジャナイカ」騒擾に続く。
研究書の多くは「エエジャナイカ」という発音を採用しているが、小梅日記は「ヨイジャナイカ」としている。
書き始めは
―極快晴、暖晴。雄輔出勤、主人、加納氏へおしへに行。直に帰る―
(すばらしい快晴で、穏やかな日和。息子の雄輔は登城し、夫の豹蔵は加納様へ教えに行ったが、直ぐに帰宅した)
と、まずは家人の動きを書き
田中善蔵殺害の続報を記す。紀州藩内の改革派だった田中善蔵が暗殺された事件で、小梅は犯人5人の名前と預け先を詳細に記録している。
次いで田中善蔵の息子から父親の不慮の死を知らせる手紙を受け取る。その手紙の内容を書き写す。
夕方、夫の友人二人が小魚などを持ってきたが、夫は留守だったので茶菓を出して帰りを待ち、夫が帰宅後は一献、帰った。しばらくしてまた一人来たので残り物でまた一献。来客の名前をきちんと書いている。
次いで家の修理で業者と交渉する。表の窓がある一間の戸一枚と障子2枚の修理を猪之助に頼むが、六百五十目で請け負うという話にそれでは高過ぎると、商談不成立。
細々とその日の出来事を書いているうちに「エエジャナイカ」騒擾に続く。
研究書の多くは「エエジャナイカ」という発音を採用しているが、小梅日記は「ヨイジャナイカ」としている。
―余り不思議之事故、荒増申上候―
と冒頭で紹介した部分をさらに読みくだす。
と冒頭で紹介した部分をさらに読みくだす。
―お春がやってきて、京都にいる親から馬継の叔母の所に来た手紙に、余りにも不思議なことが書いてあったので、お目にかけたい、と持って来る
さて、最近、名古屋へ江戸の女が裸で舞い降りたことがあり、その後、美濃・甲斐・大和・奈良の国など方々へ神々が降り、それを祝って踊り廻った人々があったと云う。今度は京都の南の方から始まり諸処に神々が晴天にも拘わらずハッキリと降り、大層賑やかなことだった。
降ったお札などには
天照皇大神宮
新古 御守り御はらひ
御札同小箱入 或は小判入候も有
一朱二朱有
但、小判5,6枚づつ
握り候方も有
降ったお札などには
天照皇大神宮
新古 御守り御はらひ
御札同小箱入 或は小判入候も有
一朱二朱有
但、小判5,6枚づつ
握り候方も有
〇江戸の男、祇園境内へ落候
〇不動尊 秋葉 白髭 観音 大黒 蛭子 八幡宮 多賀 七福人 春日明神 妙見 清正公 芙金 金めっき 稲荷 愛宕 土人形 色々御座候
其外御神仏一々記し候。大体は御札・御守や木像だった。
土人形の非常に古い布袋和尚が雷のような音がして降ってきたが、傷はついていなかった。
また、目方が七,八貫もある石地蔵が屋根へ降りてきたが、音はせず、瓦は一枚も割れてなかった。人がその石地蔵を触ったら身震いしたという。落ちた処は、私方の向い側にある河原町の‘‘なか寺’’(東山区の仲源寺、別称目やみ地蔵?)と言う処だ。
この他にも、方々に奇妙なことが起こっている。
その神々が降った家では、笹を建て、注連縄を張って、鏡餅・御神酒・魚・菓子など色々お供えした。町中の親類が寄り集まって、そろいの衣装。下には思い思いの半纏、友禅・鹿の子などを着て、一枚十一、二両かかったという。立派なる人は五枚六枚重ね着している。緋の素扱帯(すごき帯 女性用腰帯の一つ)をあつらえたら百両以上もするような値打ちだ。
女は男となり、男は女となり、色々趣向をこらした風俗は目をみはるほどの驚きだ。
三味線、太鼓、笛、鼓、鐘、鈴を思い思いにはやし立てて音曲を演奏し、ヨイジャナイカ、ヨイジャナイカ、ヨイジャナイカと言っては踊り、見知らぬ人にでも、侍でも、道で出会う人の手を取り、踊らんか、踊らんかと言い、踊りながら歩いている。その音その声が朝の明け方より夜は2時3時まで続き、神灯・小提灯も立派で中々筆紙に書き尽くすことができなく、日々盛んとなる。今日や明日には停止なりそうにはみえない。
その上、諸大名方、追々京都に入り、京都の賑わいは大変なこととなっている。
書画も盛大にはやり、芝居・青楼(遊女屋)までも大いに賑わっている。争いやいくさがある時節とは俗眼には、一般庶民には見えない。
余り余りの珍事に付、粗々申し上げた。
右の通り、言ってきた―
〇不動尊 秋葉 白髭 観音 大黒 蛭子 八幡宮 多賀 七福人 春日明神 妙見 清正公 芙金 金めっき 稲荷 愛宕 土人形 色々御座候
其外御神仏一々記し候。大体は御札・御守や木像だった。
土人形の非常に古い布袋和尚が雷のような音がして降ってきたが、傷はついていなかった。
また、目方が七,八貫もある石地蔵が屋根へ降りてきたが、音はせず、瓦は一枚も割れてなかった。人がその石地蔵を触ったら身震いしたという。落ちた処は、私方の向い側にある河原町の‘‘なか寺’’(東山区の仲源寺、別称目やみ地蔵?)と言う処だ。
この他にも、方々に奇妙なことが起こっている。
その神々が降った家では、笹を建て、注連縄を張って、鏡餅・御神酒・魚・菓子など色々お供えした。町中の親類が寄り集まって、そろいの衣装。下には思い思いの半纏、友禅・鹿の子などを着て、一枚十一、二両かかったという。立派なる人は五枚六枚重ね着している。緋の素扱帯(すごき帯 女性用腰帯の一つ)をあつらえたら百両以上もするような値打ちだ。
女は男となり、男は女となり、色々趣向をこらした風俗は目をみはるほどの驚きだ。
三味線、太鼓、笛、鼓、鐘、鈴を思い思いにはやし立てて音曲を演奏し、ヨイジャナイカ、ヨイジャナイカ、ヨイジャナイカと言っては踊り、見知らぬ人にでも、侍でも、道で出会う人の手を取り、踊らんか、踊らんかと言い、踊りながら歩いている。その音その声が朝の明け方より夜は2時3時まで続き、神灯・小提灯も立派で中々筆紙に書き尽くすことができなく、日々盛んとなる。今日や明日には停止なりそうにはみえない。
その上、諸大名方、追々京都に入り、京都の賑わいは大変なこととなっている。
書画も盛大にはやり、芝居・青楼(遊女屋)までも大いに賑わっている。争いやいくさがある時節とは俗眼には、一般庶民には見えない。
余り余りの珍事に付、粗々申し上げた。
右の通り、言ってきた―
30年以上、記者として取材活動をしてきた自分には、小梅の具体的データを丹念に書き記している筆力に感心する。「降ったお札」の記録も現物の形状を写し取っている。今でいうと、文字情報と映像を合わせて京都の珍事を記録したといえようか。
文字数は平凡社刊東洋文庫所収の小梅日記の活字を数えるとこの日は1449字。400字詰め原稿用紙で3枚半にあたる。
新聞記事の分量として見ると132行分にあたる。読者が1本の記事を読む切る忍耐は60行程度と言われ、新人記者は「60行以内にまとめろ」と指導された。小梅さんはその倍の文字数を書いている。
ちなみに、2023(令和5)年11月23日付の朝日新聞13版(大阪本社)の社会面は馳浩・石川県知事の「国際オリンピック委員に内閣官房機密費で東京招致のアルバム土産作戦」発言問題で三分の二を埋めているが、行数は170行。これを3分割してそれぞれに小見出しを立てている。やはり、60行単位で読み切り、と工夫している。
馳知事のニュースは内容が興味深いので一気に読んでしまったが、小梅さんは家事のかたわら、この分量に匹敵する文字数を書いたことになる。
文字数は平凡社刊東洋文庫所収の小梅日記の活字を数えるとこの日は1449字。400字詰め原稿用紙で3枚半にあたる。
新聞記事の分量として見ると132行分にあたる。読者が1本の記事を読む切る忍耐は60行程度と言われ、新人記者は「60行以内にまとめろ」と指導された。小梅さんはその倍の文字数を書いている。
ちなみに、2023(令和5)年11月23日付の朝日新聞13版(大阪本社)の社会面は馳浩・石川県知事の「国際オリンピック委員に内閣官房機密費で東京招致のアルバム土産作戦」発言問題で三分の二を埋めているが、行数は170行。これを3分割してそれぞれに小見出しを立てている。やはり、60行単位で読み切り、と工夫している。
馳知事のニュースは内容が興味深いので一気に読んでしまったが、小梅さんは家事のかたわら、この分量に匹敵する文字数を書いたことになる。
「記録する」は大事だが、「記録を残す」はさらに素晴らしい。翻って私のライフワーク、「戦艦大和」の公式記録は終戦時、焼却処分になっていた。
戦艦大和を建造していた時期の呉海軍工廠で、設計部員だった大谷豊吉氏の思い出話だ。地元採用でたたき上げの技術者だった人だ。➂
戦艦大和を建造していた時期の呉海軍工廠で、設計部員だった大谷豊吉氏の思い出話だ。地元採用でたたき上げの技術者だった人だ。➂
―筆者(注 大谷豊吉)の勤めていた旧呉海軍工廠砲熕部設計係では、1945(昭和20)年2月、一部従業員は宮原通の県立第二中学校(現在の県立宮原高校)の教室に疎開して作業をしていた。
同中学校は呉工廠の崖上にあり、横穴を掘って艦船の設計図を疎開した。全員交代制で講堂の地下7mのところに長さ100m余のジグザグ式の防空壕を掘り、5月ごろまでに完成した。
ここに17,18万枚近い原図を納めて、日夜警戒した。
6月23日の海軍工廠空襲、7月1日夜の呉市空襲もともにその難を逃れ、無事だった。
しかるに、終戦後、命によりこれらの図面、書類及び自分らの多年にわたる研究まで惜し気なく全部焼却した。
当時、組立図だけでも鉄製弾薬筐に入れて山中に埋めておいては、という考えも出たが、後日、これが発覚した場合、命に背いた科により累を他に及ぼしてはならぬとついに灰にしたものである。━
同中学校は呉工廠の崖上にあり、横穴を掘って艦船の設計図を疎開した。全員交代制で講堂の地下7mのところに長さ100m余のジグザグ式の防空壕を掘り、5月ごろまでに完成した。
ここに17,18万枚近い原図を納めて、日夜警戒した。
6月23日の海軍工廠空襲、7月1日夜の呉市空襲もともにその難を逃れ、無事だった。
しかるに、終戦後、命によりこれらの図面、書類及び自分らの多年にわたる研究まで惜し気なく全部焼却した。
当時、組立図だけでも鉄製弾薬筐に入れて山中に埋めておいては、という考えも出たが、後日、これが発覚した場合、命に背いた科により累を他に及ぼしてはならぬとついに灰にしたものである。━
戦後50年にあたる1995(平成7)年、建造の地、呉市で私は何を根拠に戦艦大和のデータを取るか、と途方に暮れた。
➀広辞苑、大辞泉は「大衆的狂乱」、日本歴史大事典「民衆の乱舞」、日本大百科全書(ニッポニカ)「熱狂的乱舞を伴う民衆運動」、百科事典マイペディア「狂乱的民衆運動」、ブリタニカ国際大百科事典「大衆の乱舞」
➁大谷豊吉著「旧軍艦大和砲熕兵装」=1955(昭和30)年2月、自家出版
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
問い合わせ、ご指摘、ご意見はCONTACTよりお願いします。
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