我等 明日を恃(たの)みき
されど
明日は遂に来たらざりき
南の風
されど
明日は遂に来たらざりき
南の風
この三行詩は1945(昭和20)年6月6日、鹿児島県知覧町の陸軍特攻基地から出撃した長野県小川村出身の和田照次少尉が遺した。同県の上田蚕糸専門学校(現在の信州大学繊維学部)在学中に学徒出陣し、特攻死の時は21歳。
2010(平成22)年7月8日、長野県上水内郡小川村が「ふるさとらんど小川」で催した「平和への願い 特攻隊員が遺した言葉和田照次遺品遺稿展」でこの歌を紹介した。
小川村は長野県北部にあり、長野市と大町市の中間に位置する。海抜500メートル前後の起伏に富む高原の村だ。信州の郷土食「おやき」を観光客向けに売り出すおやき村を開き、「日本のへそ」の地と唱え、話題づくりに取り組む。元気を感じる村だ。
遺稿展ではこの歌を次のように解説する。
……「恃む」は「当てにする、それを力にする」の意味がある。出撃命令が出れば、特攻隊員の明日はなくなる、ということは確実にあるが、自分たちは明日があることを望んでいた。明日があることを願わずにはいられなかったことを「恃む」の二字にこめたように思う。
「明日は遂に来たらざりき」は「出撃命令が出た。明日はない。覚悟しなければ」という思いが込められている……
2010(平成22)年7月8日、長野県上水内郡小川村が「ふるさとらんど小川」で催した「平和への願い 特攻隊員が遺した言葉和田照次遺品遺稿展」でこの歌を紹介した。
小川村は長野県北部にあり、長野市と大町市の中間に位置する。海抜500メートル前後の起伏に富む高原の村だ。信州の郷土食「おやき」を観光客向けに売り出すおやき村を開き、「日本のへそ」の地と唱え、話題づくりに取り組む。元気を感じる村だ。
遺稿展ではこの歌を次のように解説する。
……「恃む」は「当てにする、それを力にする」の意味がある。出撃命令が出れば、特攻隊員の明日はなくなる、ということは確実にあるが、自分たちは明日があることを望んでいた。明日があることを願わずにはいられなかったことを「恃む」の二字にこめたように思う。
「明日は遂に来たらざりき」は「出撃命令が出た。明日はない。覚悟しなければ」という思いが込められている……
21歳の青年が「恃む」という漢字を使う教養に驚く。
同展では、和田少尉は文学青年でアララギ派の歌を詠んでいた、という実姉の思い出も展示。それを読み、「なるほど」と思う。
文学青年で歌人という感受性の強い青年が特攻出撃することに残酷さを思う。長野県上田市にある戦没画学生の作品を収集、展示する無言館で感じた憤りと同じだ。
同展では、和田少尉は文学青年でアララギ派の歌を詠んでいた、という実姉の思い出も展示。それを読み、「なるほど」と思う。
文学青年で歌人という感受性の強い青年が特攻出撃することに残酷さを思う。長野県上田市にある戦没画学生の作品を収集、展示する無言館で感じた憤りと同じだ。
同展では和田少尉の出撃時を報道する新聞記事も展示した。45年6月13日付信濃毎日新聞一面左肩に6機が編隊を組んで飛行する写真を載せ、見出は「神鷹とともに天翔る 振武特攻隊沖縄へ首途」。記事に六機の乗員名を示し、「四番機和田少尉」とある。
特攻機出撃の写真報道で日付と実名が明記されたことは異例だ。航空特攻作戦の戦意高揚が狙いだったのではないか。
同展の説明では、陸軍が誇る優秀な戦闘機飛燕を送り出せる戦力があることを新聞によって内外に誇示する必要があった、という。
この記事は朝日新聞には前日に掲載されている。
和田家はこの新聞記事によって次男和田照次の特攻死を覚悟した。残る望みは長男芳郎(23)だったが、戦後、陸軍曹長としてニューギニアで戦死していたことを知る。
……人目を避けるように茶の間の奥の部屋で、這うようにして畳をかきむしって何時までも泣いていた両親の姿を五十年たった今でも、私は涙なしに思いこの浮かべることはできない……
妹のけさ江さん(64)が息子2人の戦死を知った時の両親の様子を戦後50年企画で同村が刊行した鎮魂記に寄稿した。
この文章には、遺族の気持ちを綴っている。
……母親は「運の悪い人の顔を見たけれゃ、あの者(もん)の顔を見るがいいって、みんなに顔を見られるようでいやだ。人中(ひとなか)には出たくない」と家に引きこもった。2人の息子の戦死を「自分の運の悪さ」が招いたことと、自分を責めたのだ……
しかし、戦後が何年か経つにつれ、自分を嘆くことから怒りに変わっていった。
……戦後、戦争の真相がだんだん分かってくると、戦死者の多くは運が悪いのでも、バチが当たったのでもなく、軍の指導部の誤った判断、作戦の犠牲になって、死ぬべくして死んだ。殺されたも同然だ、と思わざるを得なくなり、遺族は大人し過ぎた、欺され犠牲にされた怒りをもっとぶつけるべきだった、もっと元気を出すべきだった……
特攻機出撃の写真報道で日付と実名が明記されたことは異例だ。航空特攻作戦の戦意高揚が狙いだったのではないか。
同展の説明では、陸軍が誇る優秀な戦闘機飛燕を送り出せる戦力があることを新聞によって内外に誇示する必要があった、という。
この記事は朝日新聞には前日に掲載されている。
和田家はこの新聞記事によって次男和田照次の特攻死を覚悟した。残る望みは長男芳郎(23)だったが、戦後、陸軍曹長としてニューギニアで戦死していたことを知る。
……人目を避けるように茶の間の奥の部屋で、這うようにして畳をかきむしって何時までも泣いていた両親の姿を五十年たった今でも、私は涙なしに思いこの浮かべることはできない……
妹のけさ江さん(64)が息子2人の戦死を知った時の両親の様子を戦後50年企画で同村が刊行した鎮魂記に寄稿した。
この文章には、遺族の気持ちを綴っている。
……母親は「運の悪い人の顔を見たけれゃ、あの者(もん)の顔を見るがいいって、みんなに顔を見られるようでいやだ。人中(ひとなか)には出たくない」と家に引きこもった。2人の息子の戦死を「自分の運の悪さ」が招いたことと、自分を責めたのだ……
しかし、戦後が何年か経つにつれ、自分を嘆くことから怒りに変わっていった。
……戦後、戦争の真相がだんだん分かってくると、戦死者の多くは運が悪いのでも、バチが当たったのでもなく、軍の指導部の誤った判断、作戦の犠牲になって、死ぬべくして死んだ。殺されたも同然だ、と思わざるを得なくなり、遺族は大人し過ぎた、欺され犠牲にされた怒りをもっとぶつけるべきだった、もっと元気を出すべきだった……
私は自分がテーマとする戦艦大和の遺族を中心に、戦死の伝えられ方、一報を聞いた時の親、家族の様子を特に関心をもって取材してきた。
明治以降、国は子どもの教育に関心をもち、念入りに緻密に計画を練って学校の現場を押さえ、警察の力を借りてでも教師を管理してきた。その熱心さは異常と思う。滅私奉公の教育を徹底した。その教育熱心に比べると、太平洋戦争の戦死者に対する処遇は薄情と映る。戦死の報の多くは遺族自ら探り当てた。戦死時の状況は不明確だ。遺骨収集は戦後70年過ぎても続く。
妹けさ江さんは前出の文章で兄芳郎さんの戦死を知るいきさつを述べている。
小川村からニューギニア方面の戦場に派遣された兵隊は11人いた。が、戦争が終わっても国から消息の連絡がなかった。
敗戦から2ヶ月ほどたった1945(昭和20)年10月ごろ、ニューギニア方面からの引き揚げ船が横須賀港に入るとの知らせが伝わり、代表して叔父が迎えにいった。が、叔父からの電報は「ミナダ メダ 」だった。
明治以降、国は子どもの教育に関心をもち、念入りに緻密に計画を練って学校の現場を押さえ、警察の力を借りてでも教師を管理してきた。その熱心さは異常と思う。滅私奉公の教育を徹底した。その教育熱心に比べると、太平洋戦争の戦死者に対する処遇は薄情と映る。戦死の報の多くは遺族自ら探り当てた。戦死時の状況は不明確だ。遺骨収集は戦後70年過ぎても続く。
妹けさ江さんは前出の文章で兄芳郎さんの戦死を知るいきさつを述べている。
小川村からニューギニア方面の戦場に派遣された兵隊は11人いた。が、戦争が終わっても国から消息の連絡がなかった。
敗戦から2ヶ月ほどたった1945(昭和20)年10月ごろ、ニューギニア方面からの引き揚げ船が横須賀港に入るとの知らせが伝わり、代表して叔父が迎えにいった。が、叔父からの電報は「ミナダ メダ 」だった。
前出の新聞記事についてもう一つのエピソードを付け加えたい。同記事にある「六番機川路少尉」は出撃途中、機体不調で引き返した。5日後の11日に単機、再出撃し、還らなかった。①
同記事はそれを待って掲載されたかのようなタイミングだ。
和田少尉らの出撃の目的が、作戦によるものではなく、戦力誇示の宣伝のため、また、新聞記事掲載の都合に合わせるため、と知ると、人身御供のような空しさを覚える。
同記事はそれを待って掲載されたかのようなタイミングだ。
和田少尉らの出撃の目的が、作戦によるものではなく、戦力誇示の宣伝のため、また、新聞記事掲載の都合に合わせるため、と知ると、人身御供のような空しさを覚える。
① 辺見じゅん「NHK教育テレビ人間講座『戦場から届いた遺書』」2002年12月NHK出版刊
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
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