碑文は「この地は昭和二十年四月七日払暁大和特攻艦隊出撃を見送りし島ぞ。平和の礎となり給えるみたまよ。南風(ハエ)にのり還り鎮まりませと祈りつつこの地に碑を捧ぐ」とある。
2013年4月7日、黒島の特攻平和観音の隣に沖縄海上特攻作戦に出動した戦艦大和と第二艦隊の鎮魂碑が建立された。「第二艦隊第一遊撃部隊(大和特攻艦隊)鎮魂碑」と刻む。
戦没者の霊が南風にのって安らかに故郷へ戻ることを祈ってこの碑を建てた、という。
建立者は「江名武彦」と「日高重行」。日高重行さんは地元大里地区の区長。
江名さんは1945(昭和20)年5月、海軍特攻機で出撃中にエンジン不調で黒島近くの海に不時着した人だ。江名さんは戦後、黒島に航空特攻の戦死者を追悼する特攻平和観音像を建立した。そして今回、大和艦隊の慰霊碑を加えた。
戦艦大和戦闘詳報の付図、行動図によると、大和艦隊は1945(昭和20)年4月7日午前7時、黒島北方約16キロの沖合を通過している。①
同じ日の午後0時半ごろから米艦上機群との間で海空戦があり、戦艦大和をはじめ計5隻が沈没した。黒島から西へ約170キロの海域だ。②
当時11歳だった日高康雄さんの「大和艦隊を見た」記憶は前回、まとめた。その記憶と戦闘詳報の行動図とでは大和艦隊の経路はかなり異なる。
戦没者の霊が南風にのって安らかに故郷へ戻ることを祈ってこの碑を建てた、という。
建立者は「江名武彦」と「日高重行」。日高重行さんは地元大里地区の区長。
江名さんは1945(昭和20)年5月、海軍特攻機で出撃中にエンジン不調で黒島近くの海に不時着した人だ。江名さんは戦後、黒島に航空特攻の戦死者を追悼する特攻平和観音像を建立した。そして今回、大和艦隊の慰霊碑を加えた。
戦艦大和戦闘詳報の付図、行動図によると、大和艦隊は1945(昭和20)年4月7日午前7時、黒島北方約16キロの沖合を通過している。①
同じ日の午後0時半ごろから米艦上機群との間で海空戦があり、戦艦大和をはじめ計5隻が沈没した。黒島から西へ約170キロの海域だ。②
当時11歳だった日高康雄さんの「大和艦隊を見た」記憶は前回、まとめた。その記憶と戦闘詳報の行動図とでは大和艦隊の経路はかなり異なる。
行動図によると、戦艦大和とその随伴艦は黒島の約16キロ沖合を通過している。
16キロ沖合では黒島からこの大和艦隊を見ることはできない▽黒島で日高さんの話を裏付ける複数の証言は見つからない―などから信憑性に疑問をもつ意見は多い。
大和艦隊の先頭に立った軽巡洋艦矢矧の士官だった池田武邦さんに、この証言を話したら、否定した。当時の大和や他の駆逐艦乗組員2人にも黒島接近の可能性についてたずねたが、いずれも「あり得ない」という返事だった。
しかし、中にはこう付け加える人はいた。
「戦闘員が知るのは持ち場限りの範囲内のことです。艦隊全体の動きはわからない」
軍艦や艦隊は敵の航空機や潜水艦を警戒しながら進む。之字運動といってジグザグに針路を変えて進む。行動図の経路を基本に、その時々の情報や見張りの報告によって針路を変えることはあり得る。
大和艦隊は味方航空機の援護なしに裸のまま進撃した。米機動部隊の索敵を逃れ、米潜水艦の目をそらそうと細心の注意をもって航路を選択したはずだ。
16キロ沖合では黒島からこの大和艦隊を見ることはできない▽黒島で日高さんの話を裏付ける複数の証言は見つからない―などから信憑性に疑問をもつ意見は多い。
大和艦隊の先頭に立った軽巡洋艦矢矧の士官だった池田武邦さんに、この証言を話したら、否定した。当時の大和や他の駆逐艦乗組員2人にも黒島接近の可能性についてたずねたが、いずれも「あり得ない」という返事だった。
しかし、中にはこう付け加える人はいた。
「戦闘員が知るのは持ち場限りの範囲内のことです。艦隊全体の動きはわからない」
軍艦や艦隊は敵の航空機や潜水艦を警戒しながら進む。之字運動といってジグザグに針路を変えて進む。行動図の経路を基本に、その時々の情報や見張りの報告によって針路を変えることはあり得る。
大和艦隊は味方航空機の援護なしに裸のまま進撃した。米機動部隊の索敵を逃れ、米潜水艦の目をそらそうと細心の注意をもって航路を選択したはずだ。
大和の戦闘詳報によれば、7日午前6時に対潜警戒の陣形から対空警戒の円陣に組み替えている。この時、駆逐艦朝霜が機関故障で落伍したため駆逐艦の配置が変わった。水上偵察機を鹿児島県指宿の基地に戻すためにカタパルトを風上に向けるよう艦の向きを変えたはずだ。複雑な艦隊運動をしていたと推察される。
私が日高さんの証言に興味を持つのは、日高さんの抜群の記憶力による。
戦時中から敗戦を境に刻々変わる黒島の様子を日高少年は克明に覚えていた。
漂着した水兵の遺体処理から戦後、遺族へ連絡する父親の行動を微に入り細に入って説明する。不時着した特攻隊員の様子などは、不時着した1人、江名武彦さんが驚くほどの記憶力だ。
ただ、日高少年の見た艦隊の姿やその後の大音響については、黒島で他の証言は得られなかった。もう一つの集落、片泊は大和沈没海面に近いが、日高少年の証言を裏付けるものはなかった。
それでも、数少ない戦艦大和の記録に参考として残す価値はあると思う。日本は敗戦直前、戦争に関する記録の多くを軍命令で焼却した。日本のアジア・太平洋戦争に関する公式記録は現場の証言で検証、補強しなければならない宿命をもつ。
記憶は薄れるし、無くなる。「日高さんの記憶を記録すべきだ」と私は思った。
日高さんの話から、苦心しながら沖縄に向かう大和艦隊の姿が思い浮かぶ。
江名さんは言う。「黒島は特攻を考える場所だ。ここに立つと、東シナ海を特攻海と呼びたくなる」
なるほど。黒島で見渡せば、鹿児島県本土の串良、鹿屋、知覧、万世の陸海軍の航空特攻基地から飛来してきた2111人の爆音が今も周辺の海面に漂っているかのように聞こえる気持ちになる。③
特攻基地があった自治体では毎年、航空特攻の慰霊祭が、枕崎市や徳之島・伊仙町では戦艦大和を旗艦とする第二艦隊の沖縄海上特攻作戦慰霊祭がある。島々には漂着した兵士を弔う慰霊碑が立つ。
私は戦艦大和と第二艦隊の慰霊祭を枕崎市と徳之島・伊仙町で取材した。知覧特攻平和会館を見学した。個別に特攻の理不尽を感じた。
しかし、黒島に立つと、特攻の全体が押し寄せてきた。若者を大事にしない、子どもを弄くり廻してきた、その結果が「制度としての特攻」が作戦に登場したのだと私は思う。過労死、子どもの虐待死、いじめ自殺、若者による無差別殺人と続く現在の日本も「大人の都合」が優先する構造は同じだ、と叫びたくなる。
私には炎天下の阪神甲子園球場に立たせられる高校球児も同様に映る。「大人」は野球のスポーツシーズンに合わせて大会を開催する発想はできないのか。
余談だが、私の現役時代、地方総局に、ある編集局長が巡回してきたので、「朝日新聞は夏の高校野球主催から退くべきではないか」と質問した。30数年、地方球場で夏の高校野球を取材してきた体験をふまえた発言のつもりだった。
理由はいくつかあるが、その最たるものは「炎天下の試合」だ。「教育の一環」とはいえない、虐待ではないか、と思う。
返答は「なるほど。朝日新聞の解体的出直しだな」とメモはしていた。
立つ場所によって見えてくるものがある。黒島の頂から渺々と広がる東シナ海を見渡すと、「制度化された特攻」を、隊員各人の潔癖、矜持を踏まえながらも乗り越えて、その非を指摘しなければならない。
戦時中から敗戦を境に刻々変わる黒島の様子を日高少年は克明に覚えていた。
漂着した水兵の遺体処理から戦後、遺族へ連絡する父親の行動を微に入り細に入って説明する。不時着した特攻隊員の様子などは、不時着した1人、江名武彦さんが驚くほどの記憶力だ。
ただ、日高少年の見た艦隊の姿やその後の大音響については、黒島で他の証言は得られなかった。もう一つの集落、片泊は大和沈没海面に近いが、日高少年の証言を裏付けるものはなかった。
それでも、数少ない戦艦大和の記録に参考として残す価値はあると思う。日本は敗戦直前、戦争に関する記録の多くを軍命令で焼却した。日本のアジア・太平洋戦争に関する公式記録は現場の証言で検証、補強しなければならない宿命をもつ。
記憶は薄れるし、無くなる。「日高さんの記憶を記録すべきだ」と私は思った。
日高さんの話から、苦心しながら沖縄に向かう大和艦隊の姿が思い浮かぶ。
江名さんは言う。「黒島は特攻を考える場所だ。ここに立つと、東シナ海を特攻海と呼びたくなる」
なるほど。黒島で見渡せば、鹿児島県本土の串良、鹿屋、知覧、万世の陸海軍の航空特攻基地から飛来してきた2111人の爆音が今も周辺の海面に漂っているかのように聞こえる気持ちになる。③
特攻基地があった自治体では毎年、航空特攻の慰霊祭が、枕崎市や徳之島・伊仙町では戦艦大和を旗艦とする第二艦隊の沖縄海上特攻作戦慰霊祭がある。島々には漂着した兵士を弔う慰霊碑が立つ。
私は戦艦大和と第二艦隊の慰霊祭を枕崎市と徳之島・伊仙町で取材した。知覧特攻平和会館を見学した。個別に特攻の理不尽を感じた。
しかし、黒島に立つと、特攻の全体が押し寄せてきた。若者を大事にしない、子どもを弄くり廻してきた、その結果が「制度としての特攻」が作戦に登場したのだと私は思う。過労死、子どもの虐待死、いじめ自殺、若者による無差別殺人と続く現在の日本も「大人の都合」が優先する構造は同じだ、と叫びたくなる。
私には炎天下の阪神甲子園球場に立たせられる高校球児も同様に映る。「大人」は野球のスポーツシーズンに合わせて大会を開催する発想はできないのか。
余談だが、私の現役時代、地方総局に、ある編集局長が巡回してきたので、「朝日新聞は夏の高校野球主催から退くべきではないか」と質問した。30数年、地方球場で夏の高校野球を取材してきた体験をふまえた発言のつもりだった。
理由はいくつかあるが、その最たるものは「炎天下の試合」だ。「教育の一環」とはいえない、虐待ではないか、と思う。
返答は「なるほど。朝日新聞の解体的出直しだな」とメモはしていた。
立つ場所によって見えてくるものがある。黒島の頂から渺々と広がる東シナ海を見渡すと、「制度化された特攻」を、隊員各人の潔癖、矜持を踏まえながらも乗り越えて、その非を指摘しなければならない。
① 沖縄海上特攻作戦の戦艦大和の戦闘詳報は「軍極秘 軍艦大和戦闘詳報 自昭和二十年四月六日 至四月七日」とし防衛省防衛研究所戦史研究センターに残っている。
② 大和艦隊の沈没艦は計6隻だが、駆逐艦朝霜は進撃途中、機関故障のため落伍し、その後、撃沈された。午後0時半以降の海空戦での沈没艦は5隻。
③ 2111人という数字は、筆者渡辺が元特攻基地4カ所の史料館が発表する特攻出撃で戦死した人数を合計した。
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
問い合わせ、ご指摘、ご意見はCONTACTよりお願いします。
② 大和艦隊の沈没艦は計6隻だが、駆逐艦朝霜は進撃途中、機関故障のため落伍し、その後、撃沈された。午後0時半以降の海空戦での沈没艦は5隻。
③ 2111人という数字は、筆者渡辺が元特攻基地4カ所の史料館が発表する特攻出撃で戦死した人数を合計した。
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