黒島に不時着した元海軍少尉江名武彦さん(91)から2015年5月10日に聞いた話を続ける。
……1945(昭和20)年5月11日、鹿児島県・串良海軍基地から再出撃した。前の日に命令があった。宇佐海軍航空隊所属の1機、姫路空3機、百里原空3機の計7機のうち、突入は1機のみ。残りは不時着か、すぐに引き返した。九七式艦攻が余りにも故障が多いので、5月11日をもって九七式艦攻の隊は解散となった。
私の機は黒島を通過後、沖縄までの中間点まで来たが、高度が下がり、このままいけば海没するという状態になった。帰投することにしたが、高度700メートルだった。800キロ爆弾を抱えているが、この爆弾を落として飛行時間を長くしようとした。高度650メートルで爆弾を落とした。爆発で機体は50メートルほど噴き上げられた。航続距離は伸びるだろうが、どこまでもつかわからなかった。が、来た道を引き返した。
黒島にたどり着いた時、高度は150メートルまで下がっていたので、不時着を決意した。午前7時ごろだ。
島を一周して集落を確認し、北側の海に着水した。集落は大里で、着水海域は大里から約1キロ過ぎた赤鼻という岬の沖だった。磯で3人が釣りをしていた。
飛行機は頭が重たいからそのままだと海に突っ込んでしまう。尻からつかなければならない。見事、尻から着水した。プロペラが曲がった。
着水後、97式艦攻が浮いている時間は1分しかない。電信員前田義昭・二等飛行兵曹は暗号書を海没する作業をする。操縦員梅本満・二飛曹の風防が開かないので、私が馬乗りになってこじあけた。
わずかに開いたが、大男の梅本操縦員がそのすき間から出てきたのには驚いた。右翼にはいでた。
梅本さんは垂水の漁師出身だから、この辺りの潮の流れを知っている。梅本さんに「先頭に立て」と言うと、「了解」と泳ぎだした。その後ろ両側に2人が続いた。救命胴衣をつけているから泳ぎは楽だった。
……1945(昭和20)年5月11日、鹿児島県・串良海軍基地から再出撃した。前の日に命令があった。宇佐海軍航空隊所属の1機、姫路空3機、百里原空3機の計7機のうち、突入は1機のみ。残りは不時着か、すぐに引き返した。九七式艦攻が余りにも故障が多いので、5月11日をもって九七式艦攻の隊は解散となった。
私の機は黒島を通過後、沖縄までの中間点まで来たが、高度が下がり、このままいけば海没するという状態になった。帰投することにしたが、高度700メートルだった。800キロ爆弾を抱えているが、この爆弾を落として飛行時間を長くしようとした。高度650メートルで爆弾を落とした。爆発で機体は50メートルほど噴き上げられた。航続距離は伸びるだろうが、どこまでもつかわからなかった。が、来た道を引き返した。
黒島にたどり着いた時、高度は150メートルまで下がっていたので、不時着を決意した。午前7時ごろだ。
島を一周して集落を確認し、北側の海に着水した。集落は大里で、着水海域は大里から約1キロ過ぎた赤鼻という岬の沖だった。磯で3人が釣りをしていた。
飛行機は頭が重たいからそのままだと海に突っ込んでしまう。尻からつかなければならない。見事、尻から着水した。プロペラが曲がった。
着水後、97式艦攻が浮いている時間は1分しかない。電信員前田義昭・二等飛行兵曹は暗号書を海没する作業をする。操縦員梅本満・二飛曹の風防が開かないので、私が馬乗りになってこじあけた。
わずかに開いたが、大男の梅本操縦員がそのすき間から出てきたのには驚いた。右翼にはいでた。
梅本さんは垂水の漁師出身だから、この辺りの潮の流れを知っている。梅本さんに「先頭に立て」と言うと、「了解」と泳ぎだした。その後ろ両側に2人が続いた。救命胴衣をつけているから泳ぎは楽だった。
前田さんは闘志みなぎっている少年だったが、この時、磯釣りの3人に「助けてくれ」と叫んだ。海に入る時、「何としてでも生きたい」という生の本能がわきあがってきたのだろう。戦後、「助けてくれ」が話題になると、前田さんはそんなことを言った記憶はない、と強く否定したものだ。
上陸すると、間もなく伝馬船が迎えにきた。磯釣りの3人のうちの誰かが大里集落まで戻り、伝馬船を出したらしい。
私達の機が不時着する前の4月13日、陸軍第二十九振武隊の柴田信也少尉機が黒島の荒磯に突っ込んだ。大やけどを負い、島で一番大きい家である安永家に運び込まれていた。
江名少尉ら3人は警防団長の家の4畳半の部屋で雑魚寝という生活に入った。
6月12日、中村憲太郎陸軍少尉が黒島の西側、片泊集落に不時着し、片泊に滞在した。
これで不時着した乗員は計5人となった。
江名少尉ら3人は警防団長の家の4畳半の部屋で雑魚寝という生活に入った。
6月12日、中村憲太郎陸軍少尉が黒島の西側、片泊集落に不時着し、片泊に滞在した。
これで不時着した乗員は計5人となった。
大やけどの柴田少尉の治療に島民は貴重な馬を一頭殺し、馬肉で熱をとった。馬の脂を塗り、薬草を煎じて飲ませたが、生死の境という状態が続いた。
黒島に不時着したものの、手漕ぎの舟で帰還した安部正也少尉が特攻の再出撃の時に落としてくれたのであろうという薬品で治療を続けた。
島民は我々にサツマイモを、大やけどの柴田少尉には神に供えていた神米でつくったおかゆを出していた。島民は山に入ってカズラの根を掘り出し、叩いて煮て澱粉にして食料としていた。サツマイモは島では最大のごちそうだった。
黒島に不時着したものの、手漕ぎの舟で帰還した安部正也少尉が特攻の再出撃の時に落としてくれたのであろうという薬品で治療を続けた。
島民は我々にサツマイモを、大やけどの柴田少尉には神に供えていた神米でつくったおかゆを出していた。島民は山に入ってカズラの根を掘り出し、叩いて煮て澱粉にして食料としていた。サツマイモは島では最大のごちそうだった。
島の若い男はみな軍隊に行っていた。島にはまだラジオはなかった。米潜水艦を警戒して連絡船はこない。情報がまったく入ってこない状態となった。
6月中旬まで、黎明、薄暮には特攻機が飛んできた。発動機の音が弱いのでわかる。昼間は米軍の戦爆連合の航空機が何百機と黒島の上空を通っていった。
6月中旬まで、黎明、薄暮には特攻機が飛んできた。発動機の音が弱いのでわかる。昼間は米軍の戦爆連合の航空機が何百機と黒島の上空を通っていった。
7月17日、私は海を見ていると、北方からフネ一隻が大里沖に来た。潜水艦だったので、みな山へ逃げた。
潜水艦は日の丸を出し、手旗信号で「はしけを出せ」と言ってきた。陸軍の潜水艇で○の中にユと書いてマルユ艇と呼ぶ。艇長は松岡という人だった。「沖縄出撃中だが、夕方まで休ませてほしい」と言い、半舷上陸した。
私は艇長に「不時着した5人の存在を電報してもらいたい。柴田少尉を病院に入れたい」と頼んだ。艇長は「口之永良部島に寄るので、そこから電報を打つ」と答えた。
7月30日、また同じフネが北から来た。艇長は同じ松岡という人だった。「沖縄は陥落したので作戦は終了した。艇内に余裕ができたので、不時着者全員を連れて帰る」と言う。すぐに片泊の中村少尉に連絡して5人がそろった。
島民が「離別の宴をやろう」といってくれて、みんな集まったところへ、グラマン3機がやってきて、銃撃をはじめた。全員退避したが、日高オキノさんが頸動脈貫通の銃撃を受けて即死した。乳飲み子を抱えて避難する最中だった。宴がお通夜になってしまった。
前田兵曹は「これから行ってまいります」とあいさつした。島民が唄う「のぼるチンダイさん」を背中に聞きながら出港したが、海はしけていた。島に軍人が1人もいなくなり、逃げて帰るようで申し訳ないという気持だった。本土決戦となると、この島はどう生き残るのか、と心配だった。
マルユ艇は長崎県口之津に着いた。陸軍暁部隊の根拠地だった。その晩は雲仙に一泊し、佐世保鎮守府に出た。柴田少尉は大分の陸軍病院に入った。
鎮守府では、第五航空艦隊は大分市に移った、と言うので、大分市へ行った。私は戦死の扱いとなっていた。本土決戦ということで「茨城県百里基地へ戻れ」となり、8月6日に出発した。
広島市手前で列車が止まった。広島原爆のためだ。7日、歩いて広島市内を通過したが、その状況を見て、さすがの私も闘志が萎えた。「戦争は罪悪だ」と思った。
百里に着くと、幹部が集まって私に「広島の状況を話せ」と聞いてきた。私は「壊滅だ」と答えた。8月14日、茨城県内の袋田温泉で療養となり、15日、その温泉場で終戦の玉音放送を聞いた。
戦後は食品業昭和産業に勤務。サラリーマンとして過ごした。
潜水艦は日の丸を出し、手旗信号で「はしけを出せ」と言ってきた。陸軍の潜水艇で○の中にユと書いてマルユ艇と呼ぶ。艇長は松岡という人だった。「沖縄出撃中だが、夕方まで休ませてほしい」と言い、半舷上陸した。
私は艇長に「不時着した5人の存在を電報してもらいたい。柴田少尉を病院に入れたい」と頼んだ。艇長は「口之永良部島に寄るので、そこから電報を打つ」と答えた。
7月30日、また同じフネが北から来た。艇長は同じ松岡という人だった。「沖縄は陥落したので作戦は終了した。艇内に余裕ができたので、不時着者全員を連れて帰る」と言う。すぐに片泊の中村少尉に連絡して5人がそろった。
島民が「離別の宴をやろう」といってくれて、みんな集まったところへ、グラマン3機がやってきて、銃撃をはじめた。全員退避したが、日高オキノさんが頸動脈貫通の銃撃を受けて即死した。乳飲み子を抱えて避難する最中だった。宴がお通夜になってしまった。
前田兵曹は「これから行ってまいります」とあいさつした。島民が唄う「のぼるチンダイさん」を背中に聞きながら出港したが、海はしけていた。島に軍人が1人もいなくなり、逃げて帰るようで申し訳ないという気持だった。本土決戦となると、この島はどう生き残るのか、と心配だった。
マルユ艇は長崎県口之津に着いた。陸軍暁部隊の根拠地だった。その晩は雲仙に一泊し、佐世保鎮守府に出た。柴田少尉は大分の陸軍病院に入った。
鎮守府では、第五航空艦隊は大分市に移った、と言うので、大分市へ行った。私は戦死の扱いとなっていた。本土決戦ということで「茨城県百里基地へ戻れ」となり、8月6日に出発した。
広島市手前で列車が止まった。広島原爆のためだ。7日、歩いて広島市内を通過したが、その状況を見て、さすがの私も闘志が萎えた。「戦争は罪悪だ」と思った。
百里に着くと、幹部が集まって私に「広島の状況を話せ」と聞いてきた。私は「壊滅だ」と答えた。8月14日、茨城県内の袋田温泉で療養となり、15日、その温泉場で終戦の玉音放送を聞いた。
戦後は食品業昭和産業に勤務。サラリーマンとして過ごした。
1977(昭和52)年、私と柴田さんの2人で黒島を訪ねた。
この時、鹿児島港の岸壁で朝日新聞の記者から取材を受けた。船中では、別の取材で乗っていた読売記者からも取材を受けた。
その後、島に観音様を建てて慰霊碑にしようと決めたが、柴田さんは1988(昭和63)年、所沢市で死去した。
2004(平成16)年5月、特攻平和観音を開聞岳が見える冠岳頂上付近に建立した。建立者は柴田、江名、地元一同とした。
同時に医薬品投下の安部少尉をしのんで、大里地区の医薬品の箱が落ちた場所に「悼安部正也大尉碑」も建立した。
2006(平成18)年5月、平和の鐘を、2009(平成21)年5月、妻と2人の名前で特攻隊員像を、2010(平成22)年5月、水掛地蔵と「三島村戦没者、米軍機銃撃による戦没者」の銘板を建立した。
今思うに、特攻隊を編成する時、連帯感と勇気が必要だが、予科練出身者の健気さ、純心さは本物だった。大学を出た人はやれヘーゲルだ、カントだ、と語って自分の死を簡単に納得できなかった。強制された死を唯々諾々と受け入れる精神力をもつことは難しかった。
特攻機に乗り組むとき、飛行機は自分の棺桶となるのできれいにした。前の晩は眠れない。自分の死を納得させることは難しい。最後は地縁、血縁にすがった。親、兄弟、一族の誇りとなろう、と思った。
子どもは男の子2人で、孫が4人いる。今は「いいおじいちゃん」ですよ。
この時、鹿児島港の岸壁で朝日新聞の記者から取材を受けた。船中では、別の取材で乗っていた読売記者からも取材を受けた。
その後、島に観音様を建てて慰霊碑にしようと決めたが、柴田さんは1988(昭和63)年、所沢市で死去した。
2004(平成16)年5月、特攻平和観音を開聞岳が見える冠岳頂上付近に建立した。建立者は柴田、江名、地元一同とした。
同時に医薬品投下の安部少尉をしのんで、大里地区の医薬品の箱が落ちた場所に「悼安部正也大尉碑」も建立した。
2006(平成18)年5月、平和の鐘を、2009(平成21)年5月、妻と2人の名前で特攻隊員像を、2010(平成22)年5月、水掛地蔵と「三島村戦没者、米軍機銃撃による戦没者」の銘板を建立した。
今思うに、特攻隊を編成する時、連帯感と勇気が必要だが、予科練出身者の健気さ、純心さは本物だった。大学を出た人はやれヘーゲルだ、カントだ、と語って自分の死を簡単に納得できなかった。強制された死を唯々諾々と受け入れる精神力をもつことは難しかった。
特攻機に乗り組むとき、飛行機は自分の棺桶となるのできれいにした。前の晩は眠れない。自分の死を納得させることは難しい。最後は地縁、血縁にすがった。親、兄弟、一族の誇りとなろう、と思った。
子どもは男の子2人で、孫が4人いる。今は「いいおじいちゃん」ですよ。
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