1945(昭和20)年3月28日午後、広島県呉市の呉軍港から出港直前の戦艦大和の脇を3隻の駆逐艦がすりぬけていった。先頭の磯風(基準排水量2,500トン)の煙突には菊水の紋が描かれ、その脇に「非理法権天」と書いた旗がひらめていた。
大和の最も高い部署、海面から40メートルの高さにある測的所から見ていた中道豊・水兵長(21)は「煙突に絵を描いたり、旗を立てる。駆逐艦は艦長の腹一つで何でもやりよる。戦艦のような大きいフネではでけんことや」と感心した。そして「小学校の国史教科書にあった桜井の別れの絵と同じやな」とも思った。
菊水の印も「非理法権天」の旗も、約600年前、南北朝時代の1336年、南朝方の武将、楠木正成が足利尊氏の大軍を兵庫湊川(今の神戸市兵庫区)で迎え撃つ時に掲げた、とされている。
京都・南禅寺の修行僧だった中道さんは徴兵で海軍に入り、この3月1日に大和に乗り組んだばかりだった。仏典に「非理法権天」という言葉は出てこない。中道は「非理法権天」の意味は分からなかったが、教科書の挿絵に出てくる言葉として知っていた。
菊水の印も「非理法権天」の旗も、約600年前、南北朝時代の1336年、南朝方の武将、楠木正成が足利尊氏の大軍を兵庫湊川(今の神戸市兵庫区)で迎え撃つ時に掲げた、とされている。
京都・南禅寺の修行僧だった中道さんは徴兵で海軍に入り、この3月1日に大和に乗り組んだばかりだった。仏典に「非理法権天」という言葉は出てこない。中道は「非理法権天」の意味は分からなかったが、教科書の挿絵に出てくる言葉として知っていた。
1934(昭和9)年発行の尋常小学国史上巻から「第二三 楠木正成」の項に挿絵が入るようになった。歴史人物画を得意とした磯田長秋(1880-1947)が描いた「桜井の駅の別れ」だ。
挿絵では、菊水の紋は正行と対座する正成の背後の幔幕や周囲の盾に3つ描かれ、絵の前面に「非理法権天」の旗が翻っている。正成が湊川に向かって今の大阪府島本町まで軍勢を進めた時に、子の正行を故郷の大阪河内へ帰るように諭す場面だ。戦前、学校唱歌「桜井の訣別(わかれ)」の「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ……」と共に広く知れ渡った故実だ。
挿絵では、菊水の紋は正行と対座する正成の背後の幔幕や周囲の盾に3つ描かれ、絵の前面に「非理法権天」の旗が翻っている。正成が湊川に向かって今の大阪府島本町まで軍勢を進めた時に、子の正行を故郷の大阪河内へ帰るように諭す場面だ。戦前、学校唱歌「桜井の訣別(わかれ)」の「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ……」と共に広く知れ渡った故実だ。
教科書「尋常小学国史上」には、楠木正成が子の正行に言った言葉を載せている。
「この度の合戦には、味方が勝つことはむずかしい。自分が戦死した後は、天下は足利氏のものとなろう。けれども、そなたは、どんなつらい目にあっても、自分に代って忠義の志を全うしてもらいたい。これが何よりの孝行であるぞ」
「足利氏」を米軍と置き換えれば、まさしく歴史は繰り返す、だ。
「非理法権天」とは広辞苑によると、「人事はつまるところ天の命のままに動くもの、天を欺くことはできない」という意味だ。
権力者の理不尽な命令に従わざるを得ない時があっても、天はどちらが正しいかを見ている、というのだ。
「非理法権天」について二宮尊徳(1787-1856)が述べている。門人が尊徳の言説を書き留めた「二宮翁夜話」に出てくる。尊徳は江戸末期の農政家で、独自の思想に基ずく殖産事業で関東605ヵ町村を復興に導いた。その向学心を見習おうと戦前の小学校にはたきぎを背負いながら読書をする像が建てられた。
……
門人の神官が「楠木正成は旗に
非は理に勝つことあたわず
理は法に勝つことあたわず
法は権に勝つことあたわず
権は天に勝つことあたわず
天は明らかにして私なし
と書いたというが、本当か」と質問し、尊徳はこう答えた。
………
理屈が正しくても権力に押されることがある。理屈を曲げても法律はできるが、その法律をも権力は圧することができる。
しかし、いかなる権力者も、天には決して勝つことはできない。この教えを仏教では「無関門」という。
平氏も源氏も長続きしなかった。織田氏も豊臣氏も二代と続かなかった。強欲者が際限なく身代を大にせんとして智、腕をふるっても種々手違いが起きて進むことができなくなる。権謀威力を頼んで自分の利益を計っても、同じ失敗をする。
この理由は、みな「天」があるがためである。中庸に「誠なれば明らかなり。明らかなれば誠なり。誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」とある。「誠にする」とは「私を去る」である。すなわち「己に克つ」である。
「天」とは人間関係をうごかす歴史の法則、経済の法則である。歴史の法則は特定の個人や階級に味方しない。「その法則を正しく理解し、その教える真実を生きる」のが正しい生き方だ。
「この度の合戦には、味方が勝つことはむずかしい。自分が戦死した後は、天下は足利氏のものとなろう。けれども、そなたは、どんなつらい目にあっても、自分に代って忠義の志を全うしてもらいたい。これが何よりの孝行であるぞ」
「足利氏」を米軍と置き換えれば、まさしく歴史は繰り返す、だ。
「非理法権天」とは広辞苑によると、「人事はつまるところ天の命のままに動くもの、天を欺くことはできない」という意味だ。
権力者の理不尽な命令に従わざるを得ない時があっても、天はどちらが正しいかを見ている、というのだ。
「非理法権天」について二宮尊徳(1787-1856)が述べている。門人が尊徳の言説を書き留めた「二宮翁夜話」に出てくる。尊徳は江戸末期の農政家で、独自の思想に基ずく殖産事業で関東605ヵ町村を復興に導いた。その向学心を見習おうと戦前の小学校にはたきぎを背負いながら読書をする像が建てられた。
……
門人の神官が「楠木正成は旗に
非は理に勝つことあたわず
理は法に勝つことあたわず
法は権に勝つことあたわず
権は天に勝つことあたわず
天は明らかにして私なし
と書いたというが、本当か」と質問し、尊徳はこう答えた。
………
理屈が正しくても権力に押されることがある。理屈を曲げても法律はできるが、その法律をも権力は圧することができる。
しかし、いかなる権力者も、天には決して勝つことはできない。この教えを仏教では「無関門」という。
平氏も源氏も長続きしなかった。織田氏も豊臣氏も二代と続かなかった。強欲者が際限なく身代を大にせんとして智、腕をふるっても種々手違いが起きて進むことができなくなる。権謀威力を頼んで自分の利益を計っても、同じ失敗をする。
この理由は、みな「天」があるがためである。中庸に「誠なれば明らかなり。明らかなれば誠なり。誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」とある。「誠にする」とは「私を去る」である。すなわち「己に克つ」である。
「天」とは人間関係をうごかす歴史の法則、経済の法則である。歴史の法則は特定の個人や階級に味方しない。「その法則を正しく理解し、その教える真実を生きる」のが正しい生き方だ。
3月26日午後5時前、連合艦隊は大和を旗艦とする第二艦隊第一遊撃部隊(10隻)に「長崎県・佐世保港に前進、待機せよ」との命令を出した。沖縄に向かう米機動部隊をけん制するのと、誘い出して決戦を挑む狙いがあった。
同部隊は28日に呉軍港を出港するが、その後、命令は瀬戸内海待機と変わり、山口県・徳山港沖に碇泊。4月7日の沖縄海上特攻作戦へと続く。
呉出港の前日、27日に磯風では士官が率先して夜を徹して煙突に白ペンキで「菊水の流れ」を描いた。流水に菊の花が浮く図柄だ。
南北朝期の湊川の決戦に向かう楠木正成に自らを模したのだろう。
28日の夜が明けると、磯風の煙突に描かれた菊水の紋はひときわ目立った。呉軍港に悲壮感がみなぎった。
大和艦上から磯風の菊水の煙突と「非理法権天」の旗を見つめていた中道水兵長は沖縄海上特攻作戦から生還。戦後、京都市職員となり、退職後は和歌山県田辺市本宮町の寺の住職を務めた。「駆逐艦の艦長は日本海軍の艦船として最後の戦(いくさ)に出る心情を湊川に託したのだろう」と思う。
同部隊は28日に呉軍港を出港するが、その後、命令は瀬戸内海待機と変わり、山口県・徳山港沖に碇泊。4月7日の沖縄海上特攻作戦へと続く。
呉出港の前日、27日に磯風では士官が率先して夜を徹して煙突に白ペンキで「菊水の流れ」を描いた。流水に菊の花が浮く図柄だ。
南北朝期の湊川の決戦に向かう楠木正成に自らを模したのだろう。
28日の夜が明けると、磯風の煙突に描かれた菊水の紋はひときわ目立った。呉軍港に悲壮感がみなぎった。
大和艦上から磯風の菊水の煙突と「非理法権天」の旗を見つめていた中道水兵長は沖縄海上特攻作戦から生還。戦後、京都市職員となり、退職後は和歌山県田辺市本宮町の寺の住職を務めた。「駆逐艦の艦長は日本海軍の艦船として最後の戦(いくさ)に出る心情を湊川に託したのだろう」と思う。
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