1942(昭和17)年の夏、旧制和歌山中学の遠泳で浜に「八幡大菩薩」と書いた幟と共に「非理法権天」の幟(のぼり)も掲げられたという。作家津本陽氏の思い出だ。①
1945(昭和20)年3月21日、鹿児島県・鹿屋基地から人間爆弾桜花を抱えた神雷部隊が初めて出撃する時、この5文字を書き付けた幟が立ったという。その写真がある。
1945(昭和20)年3月21日、鹿児島県・鹿屋基地から人間爆弾桜花を抱えた神雷部隊が初めて出撃する時、この5文字を書き付けた幟が立ったという。その写真がある。
人間爆弾桜花を抱えた一式陸攻は16機。指揮官機と戦果確認用の2機を合わせて18機が途中、米艦上機の迎撃で全滅した。
物量で圧倒する米軍に対して、人間爆弾という非情な特攻兵器で立ち向かう兵士の思いを「非理法権天」の幟で伝えようとしたのか。
1984年に刊行された「神風特別攻撃隊の記録」にこの写真が掲載され、説明は「昭和20年3月21日、鹿屋基地を出撃する直前、トラックに乗って愛機にむかう野中少佐の桜花神雷部隊。『非理法権天』の幟がはっきり見えている」。
筆者は旧海軍で第一航空艦隊参謀だった猪口力平氏と第五航空艦隊司令部員中島正氏。同写真の出所元は「著者」とある。
同じ写真が1945(昭和20)年6月18日付読売報知新聞(現在の読売新聞)に掲載されている。
物量で圧倒する米軍に対して、人間爆弾という非情な特攻兵器で立ち向かう兵士の思いを「非理法権天」の幟で伝えようとしたのか。
1984年に刊行された「神風特別攻撃隊の記録」にこの写真が掲載され、説明は「昭和20年3月21日、鹿屋基地を出撃する直前、トラックに乗って愛機にむかう野中少佐の桜花神雷部隊。『非理法権天』の幟がはっきり見えている」。
筆者は旧海軍で第一航空艦隊参謀だった猪口力平氏と第五航空艦隊司令部員中島正氏。同写真の出所元は「著者」とある。
同じ写真が1945(昭和20)年6月18日付読売報知新聞(現在の読売新聞)に掲載されている。
読売紙面の説明では「…列線に向ふ我制空隊」、撮影者は本社特派員。「神雷部隊」と「制空隊」が同じ部隊なのかどうか、は分からないが、航空特攻の菊水作戦中に撮影された「非理法権天」の旗であることは間違いないだろう。
指揮官の野中五郎少佐は離陸直前、「湊川だよ」と低い声でいった、という。②
指揮官の野中五郎少佐は離陸直前、「湊川だよ」と低い声でいった、という。②
「非理法権天―法諺の研究」という本がある。法制史を研究した國學院大學名誉教授瀧川政次郎(1897-1992)が1964(昭和39)年、青蛙房から刊行した。
同書の序で瀧川は「非理法権天は日本の法諺の中で最も重要なものの一つである」という。法諺とは法律にかかわることわざで、多くは秩序感覚を反映している。
例えば、「泣く子と地頭には勝てぬ」は、泣く子のききわけのないことを、鎌倉~江戸時代の地頭や領主の横暴なことにかけていう。道理を以て争っても勝ち目のない相手がいる、と当時の民衆の法意識を示す。
「非理法権天」も日本人の、特に庶民の秩序感覚を表している、というのだ。
同書の序で瀧川は「非理法権天は日本の法諺の中で最も重要なものの一つである」という。法諺とは法律にかかわることわざで、多くは秩序感覚を反映している。
例えば、「泣く子と地頭には勝てぬ」は、泣く子のききわけのないことを、鎌倉~江戸時代の地頭や領主の横暴なことにかけていう。道理を以て争っても勝ち目のない相手がいる、と当時の民衆の法意識を示す。
「非理法権天」も日本人の、特に庶民の秩序感覚を表している、というのだ。
大和のわきをすりぬけていった駆逐艦長たちは、押し寄せる米軍を前にして約600年前の武将楠木正成と同じ心境だったのだろう。そして、無理難題な作戦としても従う外はない軍人としては、「非理法権天」の5文字に拠り所を求めたのだろう。
……
駆逐艦3隻が動きはじめると、波止場に10数人があわてて駆け足で出てきた。磯風の煙突に書かれた菊水の紋を見て、「特攻隊だ」と叫んで、駆け足で一生懸命追いかけてくる。帽子を振っていた。白い手袋だったから、「ああ、士官だな」と磯風の艦上に出ていた幸愛公使(みゆき・あいこうし)・主計兵は思った。
駆逐艦3隻は呉港を出ると、取り舵(左方向)をとって早瀬瀬戸に向かった。この瀬戸は狭いが、次の集結地、甲島に出るには近道となるので小型艦はこの瀬戸を抜ける。
この3隻は陽炎型という同型艦で、1940(昭和15)年から41年にかけて竣工した。磯風と浜風は開戦時から第十七駆逐隊を組み、1944(昭和19)年1月、雪風が加わった。
3隻は一本棒となってたちまちのうちに南下していった。
大和艦上から見送っていた中道水兵長は「1年以上も同じ隊なので息があっているな」とみほれた。
……
駆逐艦3隻が動きはじめると、波止場に10数人があわてて駆け足で出てきた。磯風の煙突に書かれた菊水の紋を見て、「特攻隊だ」と叫んで、駆け足で一生懸命追いかけてくる。帽子を振っていた。白い手袋だったから、「ああ、士官だな」と磯風の艦上に出ていた幸愛公使(みゆき・あいこうし)・主計兵は思った。
駆逐艦3隻は呉港を出ると、取り舵(左方向)をとって早瀬瀬戸に向かった。この瀬戸は狭いが、次の集結地、甲島に出るには近道となるので小型艦はこの瀬戸を抜ける。
この3隻は陽炎型という同型艦で、1940(昭和15)年から41年にかけて竣工した。磯風と浜風は開戦時から第十七駆逐隊を組み、1944(昭和19)年1月、雪風が加わった。
3隻は一本棒となってたちまちのうちに南下していった。
大和艦上から見送っていた中道水兵長は「1年以上も同じ隊なので息があっているな」とみほれた。
大和はその夜は広島湾の甲島南方で仮泊し、29日午前3時半、広島湾を出撃した。
第六海上保安本部に残されている旧海軍水路部の記録はこの29日を「最高気温20.1度。海陸ともに煙霧」と記している。瀬戸内海に春霞が立ちこめていた。
第六海上保安本部に残されている旧海軍水路部の記録はこの29日を「最高気温20.1度。海陸ともに煙霧」と記している。瀬戸内海に春霞が立ちこめていた。
① 日本経済新聞2009年11月掲載「私の履歴書津本陽」
② 猪口力平・中島正著「神風特別攻撃隊の記録」146ページ=雪華社1984年刊
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② 猪口力平・中島正著「神風特別攻撃隊の記録」146ページ=雪華社1984年刊
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