沖縄海上特攻作戦で出撃した戦艦大和を旗艦とする第二艦隊第一遊撃部隊は1945(昭和20)年4月7日昼、船団を組む輸送艦2隻とすれちがった。①
大和艦橋にいた副電測士吉田満少尉(21)は生還後に著した「戦艦大和ノ最期」のなかでこう描写している。
大和艦橋にいた副電測士吉田満少尉(21)は生還後に著した「戦艦大和ノ最期」のなかでこう描写している。
日本の船団に遭遇す……霞む船影、疲れ果てし船脚、痛ましき彼らが労苦を思う
……「大和」に向かい発信しきたる「御成功祈ル」 微笑、艦橋に溢るる
かの瀕死の老船団より、餞別の辞を受けんとは 直ちに返信「ワレ期待に背カザルベシ」
……「大和」に向かい発信しきたる「御成功祈ル」 微笑、艦橋に溢るる
かの瀕死の老船団より、餞別の辞を受けんとは 直ちに返信「ワレ期待に背カザルベシ」
この2隻は奄美大島特別輸送隊の二等輸送艦第146号と駆潜艇49号。奄美大島から水兵約300人を佐世保港へ運ぶ途中だった。
指揮官は丹羽正行大尉(27)。筆者は1995(平成7)年、東京・渋谷でこの時の状況を取材した。
2隻は7日午前8時半、米艦載機グラマンF6F戦闘機ヘルキャット6機に発見された。高角砲と機銃の有効射程の3キロまで引き寄せようと構えた。が、殺到してきたグラマンは直前、急角度で方向を変えて飛び去った。猟犬の群がより大きな獲物を見つけたかのような気迫がみなぎっていた。
丹羽大尉は米軍機の方向転換を不思議に思った。米軍機は、目標が機帆船だろうが、ろをこぐ漁船だろうがどんなに小さい船でも攻撃してきた。沈没させても海面を機銃掃射して人命殺傷を続けた。
その後、右前方に戦艦大和を発見した。左舷には駆逐艦が走っていた。輸送隊は大和艦隊の輪形陣の中に入っていた。米軍機は大和艦隊を探していたのだ、と気が付いた。
同輸送艦に便乗していた幸田賢司氏の記憶だ。
…しばらくして輸送艦上が騒然とした気配となった。「大和だ」「大和だ」との声が聞こえた。声の示す方向を見て驚いた。一見して遠距離なのにその艦影の大きなこと。城のごとく、山のごとく高く、高くそびえているのだ。初めて見る戦艦大和の雄姿!日本帝国海軍健在なり。万歳!と心に叫んだ…②
丹羽大尉は奄美大島を出港直前、海軍佐世保鎮守府から「同士討ちを避けるため」として大和艦隊出撃の連絡を受けていた。丹羽大尉はこの1月まで駆逐艦浜風の砲術士官だった。浜風を激励し、見送りたいとあえて大和艦隊の輪形陣に入り込んだのだ。
しかし、浜風は当初の位置、大和の右側から左側に移っていた。駆逐艦朝霜が機関故障のため落伍し、配置が変わった。丹羽大尉は肝心の浜風を見つけることはできなかったが、
沖縄特攻に向かう戦艦大和に向かって激励を送ろうとした。
輸送艦にはマストがないので旗旒信号は使えない。丹羽大尉は手旗信号と発光信号で信号を送らせた。
あて先を「指揮よ指揮」とした。「指揮官より指揮官へ」の略語だ。
「御武運の長久と御成功を祈る」
船はすれ違う時、あいさつを交わす。相手が艦長なら艦長から、指揮官なら指揮官からとなるが、輸送船団の指揮を取るとはいえ、丹羽大尉(27)が中将である伊藤整一艦隊司令官(54)に対等の立場で信号を送ることを普通は考えられない。
しかし、丹羽大尉は「日本海軍77年の最期に向かう艦隊指揮官に申し上げたかった」とあえて激励の信号をおくった。返事はまったく期待していなかった。
すると、大和の旗流信号マストに次々と旗があがり、発光信号が送られてきた。双眼鏡で見る見張り員が復唱した。
「第二艦隊司令長官伊藤整一中将ヨリ アリガトウ 我期待ニ応エントス」
輸送艦の乗員300人余が上甲板にあがり、万歳を何度も繰り返した。約1,000トンの輸送艦は万歳の度に傾いた。
大和の艦橋最上部のデッキにいる見張りが「こちらが気恥ずかしくなる」というほどの興奮だった。
大和艦隊は20ノット(時速37キロ)で南下、輸送隊は12ノット(同28キロ)で北上。視界内は約20分間だったが、思わぬ返事に丹羽大尉は感動し、敬礼の手を下げることができなかった。
2隻は7日午前8時半、米艦載機グラマンF6F戦闘機ヘルキャット6機に発見された。高角砲と機銃の有効射程の3キロまで引き寄せようと構えた。が、殺到してきたグラマンは直前、急角度で方向を変えて飛び去った。猟犬の群がより大きな獲物を見つけたかのような気迫がみなぎっていた。
丹羽大尉は米軍機の方向転換を不思議に思った。米軍機は、目標が機帆船だろうが、ろをこぐ漁船だろうがどんなに小さい船でも攻撃してきた。沈没させても海面を機銃掃射して人命殺傷を続けた。
その後、右前方に戦艦大和を発見した。左舷には駆逐艦が走っていた。輸送隊は大和艦隊の輪形陣の中に入っていた。米軍機は大和艦隊を探していたのだ、と気が付いた。
同輸送艦に便乗していた幸田賢司氏の記憶だ。
…しばらくして輸送艦上が騒然とした気配となった。「大和だ」「大和だ」との声が聞こえた。声の示す方向を見て驚いた。一見して遠距離なのにその艦影の大きなこと。城のごとく、山のごとく高く、高くそびえているのだ。初めて見る戦艦大和の雄姿!日本帝国海軍健在なり。万歳!と心に叫んだ…②
丹羽大尉は奄美大島を出港直前、海軍佐世保鎮守府から「同士討ちを避けるため」として大和艦隊出撃の連絡を受けていた。丹羽大尉はこの1月まで駆逐艦浜風の砲術士官だった。浜風を激励し、見送りたいとあえて大和艦隊の輪形陣に入り込んだのだ。
しかし、浜風は当初の位置、大和の右側から左側に移っていた。駆逐艦朝霜が機関故障のため落伍し、配置が変わった。丹羽大尉は肝心の浜風を見つけることはできなかったが、
沖縄特攻に向かう戦艦大和に向かって激励を送ろうとした。
輸送艦にはマストがないので旗旒信号は使えない。丹羽大尉は手旗信号と発光信号で信号を送らせた。
あて先を「指揮よ指揮」とした。「指揮官より指揮官へ」の略語だ。
「御武運の長久と御成功を祈る」
船はすれ違う時、あいさつを交わす。相手が艦長なら艦長から、指揮官なら指揮官からとなるが、輸送船団の指揮を取るとはいえ、丹羽大尉(27)が中将である伊藤整一艦隊司令官(54)に対等の立場で信号を送ることを普通は考えられない。
しかし、丹羽大尉は「日本海軍77年の最期に向かう艦隊指揮官に申し上げたかった」とあえて激励の信号をおくった。返事はまったく期待していなかった。
すると、大和の旗流信号マストに次々と旗があがり、発光信号が送られてきた。双眼鏡で見る見張り員が復唱した。
「第二艦隊司令長官伊藤整一中将ヨリ アリガトウ 我期待ニ応エントス」
輸送艦の乗員300人余が上甲板にあがり、万歳を何度も繰り返した。約1,000トンの輸送艦は万歳の度に傾いた。
大和の艦橋最上部のデッキにいる見張りが「こちらが気恥ずかしくなる」というほどの興奮だった。
大和艦隊は20ノット(時速37キロ)で南下、輸送隊は12ノット(同28キロ)で北上。視界内は約20分間だったが、思わぬ返事に丹羽大尉は感動し、敬礼の手を下げることができなかった。
① 戦艦大和と護衛の第二水雷戦隊の各戦闘詳報では大島輸送隊との遭遇をそれぞれ午後0時22分、午後0時19分と記録している。が、大島輸送隊の指揮をとった丹羽正行氏は1995年、筆者の取材に「午前11時ごろ。戦艦大和等の日時は誤り」と述べた。
② 第十七号一等輸送艦戦争体験記=同輸送艦戦友会編1989(平成元)年9月刊
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② 第十七号一等輸送艦戦争体験記=同輸送艦戦友会編1989(平成元)年9月刊
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