米飛行艇が偵察を続けていた。大和艦隊は米軍機を惑わすために佐世保方面に向かうかのようなあいまいな航路を取っていた。
第二艦隊司令部は米機の攻撃が近いと見て午前11時10分、大和の速力を24ノット(時速44キロ)にあげた。同29分、「205度に左一斉回頭、予定航路に向かう」と発令した。大和を第二水雷戦隊9隻が輪形陣で囲む。
前方1.5キロを第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦矢矧(基準排水量6,652トン)が先行する。矢矧の飛行甲板から細田(せだ)正徳・上等水兵(19)は突撃態勢に入る大和と駆逐艦を見ようと振り返った。子どもの時から見慣れた日露戦争日本海海戦の戦争画、役場の掲示板に貼られた海軍水兵募集のポスターなどから頭の中に染め込まれた「大日本帝国海軍の雄姿」をこの目で確かめるのだ。
前方1.5キロを第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦矢矧(基準排水量6,652トン)が先行する。矢矧の飛行甲板から細田(せだ)正徳・上等水兵(19)は突撃態勢に入る大和と駆逐艦を見ようと振り返った。子どもの時から見慣れた日露戦争日本海海戦の戦争画、役場の掲示板に貼られた海軍水兵募集のポスターなどから頭の中に染め込まれた「大日本帝国海軍の雄姿」をこの目で確かめるのだ。
2010(平成22)年4月7日、鹿児島県枕崎市であった枕崎平和祈念展望台奉賛会主催の「海上特攻第二艦隊戦没者追悼式」の会場で、私は細田さん(鹿児島県薩摩川内市)を取材し、その時の情景を絵にしてもらいたい、とお願いした。
快諾をいただき、届いた絵が下図だ。
快諾をいただき、届いた絵が下図だ。
細田さんは1944(昭和19)年12月、矢矧乗り組みとなった。沖縄海上特攻作戦の時は上等水兵で配置は飛行甲板右舷第3番機銃班。25ミリ3連装機銃の旋回手だった。
絵の説明文は
「艦隊進路は曇天だが、空も海も穏やかでした。艦橋で副長の御用をすませ、左舷旗甲板から後方見れば、戦艦大和を中心にして正面先頭矢矧、周囲を駆逐隊で花形輪形陣を作り、見事でした。私は最初で最後の対空戦闘隊形を見ました。突如、対空戦闘ラッパが鳴り響き、戦闘配置二十五ミリ三連装三番機銃に駆け付けました」
「艦隊進路は曇天だが、空も海も穏やかでした。艦橋で副長の御用をすませ、左舷旗甲板から後方見れば、戦艦大和を中心にして正面先頭矢矧、周囲を駆逐隊で花形輪形陣を作り、見事でした。私は最初で最後の対空戦闘隊形を見ました。突如、対空戦闘ラッパが鳴り響き、戦闘配置二十五ミリ三連装三番機銃に駆け付けました」
大和艦隊は同日午前6時、潜水艦に対応した警戒航行序列から対空戦闘に備えた輪形陣に切り替えた。手旗信号による指示で見事に陣形を組み替えた。
曇天だったが、大和の周囲をかためる磯風、浜風など駆逐艦の軍艦旗がはっきりと見えた。旭日の赤い色が遠目にも鮮やかだった。大和の頂にはためく中将旗も確認できた。
大和の周囲を駆逐艦が囲むと、大和の巨大さがひときわ際だった。
日本海軍の誉れ、戦艦大和の晴れ姿だ。
大和の特徴である横幅が広い艦体が波を広げていた。対空戦闘に備えて高角砲24門、機銃166丁の銃身は既に上空に向いている。前部の主砲6門は心持ち上向きだった。
大和の艦首は速度が上がるにつれ、せりあがってきた。背中に針山を総毛立たせ、怒気をふくんで腹をふくらませたガマガエルのように見えた。
今になって細田さんが思うには、あの時の戦艦大和は曼荼羅の大日如来、いや不動明王だったな、だ。
大和の周囲を駆逐艦が囲むと、大和の巨大さがひときわ際だった。
日本海軍の誉れ、戦艦大和の晴れ姿だ。
大和の特徴である横幅が広い艦体が波を広げていた。対空戦闘に備えて高角砲24門、機銃166丁の銃身は既に上空に向いている。前部の主砲6門は心持ち上向きだった。
大和の艦首は速度が上がるにつれ、せりあがってきた。背中に針山を総毛立たせ、怒気をふくんで腹をふくらませたガマガエルのように見えた。
今になって細田さんが思うには、あの時の戦艦大和は曼荼羅の大日如来、いや不動明王だったな、だ。
部終
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