筆者が朝日新聞呉支局長(広島県)だった1994年8月、大井篤氏(91)から東京都世田谷区の自宅で戦艦大和について取材した。
大井さんは海軍兵学校(51期)出身で敗戦時は大佐、護衛参謀を務めた人だ。「海上護衛戦」「統帥乱れて」の著書があり、アジア・太平洋戦争中の海軍戦略を批判し、戦艦大和については「帝国劇場にいくお嬢さんのかんざしみたいなもの」と何の意義も認めない、という論者だった。
大井さんはその年の12月に亡くなった。取材した内容はこれまで発表、発言と同じだが、直接、本人からうかがえたことは貴重な資料になる。
その帰り際、大井さんは「朝日新聞は僕の生涯の敵だが、君は呉から来る、というので会ったんだ」と言った。
勤務先を「生涯の敵」と言われて情けない気持ちになったが、それに勝る「呉」という地名の力に驚いた。
旧軍人が朝日新聞に距離を置く態度によく会うが、大井さんは理路整然と話し、合理主義者だと感服しただけに、この帰り際の一言は胸にしみた。ただ、付言して「戦前昭和の出来事は狐が憑いた、としか説明できない事が多い。田中智学と陸海軍人の関係をもっと調べるべきだな」とテーマをくれた。
田中智学は明治から昭和初期にかけて活躍した宗教家で日蓮宗から出発した人だ。影響を受けた軍人が多く、その第一に陸軍の石原莞爾が挙げられる。
「商売繁盛で笹もってこい」と現世御利益が日本人に染みついた宗教感覚だと思うが、その日本人がなぜ、特攻という体当たり攻撃を制度として展開できたのか。「八紘一宇」を唱えた田中智学にその元を探ることができるのではないか―は私の問題意識だ。
「呉」の力は同年3月、愛知県豊田市に「大和」の副砲長で少佐だった淸水芳人氏(1912-2005)を訪ねた時も感じた。沖縄海上特攻作戦で生還した人だ。
お目にかかるなり、「うーん、呉の塩っ気がする。呉だ、呉だ」というのには面食らった。淸水さん自身は呉市出身なので、故郷懐かしもあったのだろうが、海軍出身者特有の呉望郷を感じた。
続いて三重県熊野市在住の坪井平次氏(当時71)方を訪問した時だ。戦艦大和高角砲員で兵曹。沖縄海上特攻作戦から生還し、体験記「戦艦大和の最後」を出版した。電話で取材を申し込むと、「生き残った者がおめおめ人前に出られるか。お断りだ」と素っ気ない。呉の戦艦大和会が50回忌法要を機に解散する、と伝えると、「呉のもん(者)は元気か」と取材に応じてくれた。
1995年夏、神戸市で画廊を営む女性(70)が呉市で絵画頒布会を開いたが、呉市内や江田島を案内してくれ、と頼んできた。兄が学徒動員で海軍に行き、呉から出撃し、戦死した、という。繁華街である中通り、本通りは戦前からある地名か、と聞き、「兄はきっと歩いたに違いない」と人混みの中をたどっていた。
2016年に公開された長編アニメ映画「この世界の片隅に」は、戦時中の呉市が舞台だった。筆者は大阪市の映画館で見たが、老夫婦が多いことに気がついた。
戦時下の配給、空襲、防空壕の体験と主人公すずさんに重ね合わせたのであろう。しかし、私には「海軍さんの町、呉」に青春を投じた年配者も多かったのではないか、と推察する。
呉市は旧海軍に関係した人にとって聖都であり、霊都なのだ。
しかし、戦後の呉市は自らを戦犯都の日陰に置いてきた。
大井さんは海軍兵学校(51期)出身で敗戦時は大佐、護衛参謀を務めた人だ。「海上護衛戦」「統帥乱れて」の著書があり、アジア・太平洋戦争中の海軍戦略を批判し、戦艦大和については「帝国劇場にいくお嬢さんのかんざしみたいなもの」と何の意義も認めない、という論者だった。
大井さんはその年の12月に亡くなった。取材した内容はこれまで発表、発言と同じだが、直接、本人からうかがえたことは貴重な資料になる。
その帰り際、大井さんは「朝日新聞は僕の生涯の敵だが、君は呉から来る、というので会ったんだ」と言った。
勤務先を「生涯の敵」と言われて情けない気持ちになったが、それに勝る「呉」という地名の力に驚いた。
旧軍人が朝日新聞に距離を置く態度によく会うが、大井さんは理路整然と話し、合理主義者だと感服しただけに、この帰り際の一言は胸にしみた。ただ、付言して「戦前昭和の出来事は狐が憑いた、としか説明できない事が多い。田中智学と陸海軍人の関係をもっと調べるべきだな」とテーマをくれた。
田中智学は明治から昭和初期にかけて活躍した宗教家で日蓮宗から出発した人だ。影響を受けた軍人が多く、その第一に陸軍の石原莞爾が挙げられる。
「商売繁盛で笹もってこい」と現世御利益が日本人に染みついた宗教感覚だと思うが、その日本人がなぜ、特攻という体当たり攻撃を制度として展開できたのか。「八紘一宇」を唱えた田中智学にその元を探ることができるのではないか―は私の問題意識だ。
「呉」の力は同年3月、愛知県豊田市に「大和」の副砲長で少佐だった淸水芳人氏(1912-2005)を訪ねた時も感じた。沖縄海上特攻作戦で生還した人だ。
お目にかかるなり、「うーん、呉の塩っ気がする。呉だ、呉だ」というのには面食らった。淸水さん自身は呉市出身なので、故郷懐かしもあったのだろうが、海軍出身者特有の呉望郷を感じた。
続いて三重県熊野市在住の坪井平次氏(当時71)方を訪問した時だ。戦艦大和高角砲員で兵曹。沖縄海上特攻作戦から生還し、体験記「戦艦大和の最後」を出版した。電話で取材を申し込むと、「生き残った者がおめおめ人前に出られるか。お断りだ」と素っ気ない。呉の戦艦大和会が50回忌法要を機に解散する、と伝えると、「呉のもん(者)は元気か」と取材に応じてくれた。
1995年夏、神戸市で画廊を営む女性(70)が呉市で絵画頒布会を開いたが、呉市内や江田島を案内してくれ、と頼んできた。兄が学徒動員で海軍に行き、呉から出撃し、戦死した、という。繁華街である中通り、本通りは戦前からある地名か、と聞き、「兄はきっと歩いたに違いない」と人混みの中をたどっていた。
2016年に公開された長編アニメ映画「この世界の片隅に」は、戦時中の呉市が舞台だった。筆者は大阪市の映画館で見たが、老夫婦が多いことに気がついた。
戦時下の配給、空襲、防空壕の体験と主人公すずさんに重ね合わせたのであろう。しかし、私には「海軍さんの町、呉」に青春を投じた年配者も多かったのではないか、と推察する。
呉市は旧海軍に関係した人にとって聖都であり、霊都なのだ。
しかし、戦後の呉市は自らを戦犯都の日陰に置いてきた。
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
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