テレビドラマ「夢千代日記」の脚本家で作家の早坂暁(1929~2017)は15歳だった1945(昭和20)年3月下旬、広島県・呉軍港で戦艦大和を見た。
海軍兵学校に入学するため、郷里の四国愛媛県から定期連絡船(350トン)で兵学校がある江田島に向かい、呉湾にさしかかった時だ。
船員が「これから呉の港を横切るから、よろい戸を閉めてくれ」と言った。軍港なので軍艦が集結しているが、その所在は秘密なのだ。早坂少年は「自分は軍艦に乗る人間になるために兵学校に入るのだ」と言い聞かせて外をのぞいた。
海軍兵学校に入学するため、郷里の四国愛媛県から定期連絡船(350トン)で兵学校がある江田島に向かい、呉湾にさしかかった時だ。
船員が「これから呉の港を横切るから、よろい戸を閉めてくれ」と言った。軍港なので軍艦が集結しているが、その所在は秘密なのだ。早坂少年は「自分は軍艦に乗る人間になるために兵学校に入るのだ」と言い聞かせて外をのぞいた。
「その時、戦艦大和はいました。びっくりしました。間近に見て。巨大、大きいというよりも何て言うんですかね、ああいうのは。ものすごいエネルギーの塊というような」
1995(平成7)年10月21日、広島県呉市文化ホールであった「シンポジウム『大和』におもう」(赤煉瓦ネットワーク・呉レンガ建造物研究会と呉市の共催)の基調講演で早坂さんは「大和」を描写した。
「大和」は3月28日に呉港から出撃したから、早坂少年の目撃はこの直前にあたる。「大和」は弾薬、食料など必要物件を満載し、喫水線は深まった。戦場到達の気迫に満ちた姿だったのだろう。
「大和」の後部はずんと沈み込んでいた。大きなお尻という感じだった。定期船が過ぎるに従って左舷が見えてきた。
「大和」は3月28日に呉港から出撃したから、早坂少年の目撃はこの直前にあたる。「大和」は弾薬、食料など必要物件を満載し、喫水線は深まった。戦場到達の気迫に満ちた姿だったのだろう。
「大和」の後部はずんと沈み込んでいた。大きなお尻という感じだった。定期船が過ぎるに従って左舷が見えてきた。
「横から見ると実に俊敏な魅力あふれる形をしている。デザインとして美しく造ろうとした訳ではないでしょうけど、機能性の追究の極致というのはあのように美しい。美しい機能美」
「私は心の中で叫びました。僕は学校を出たらすぐにあなたに乗りますから、待っててください」
早坂さんの基調講演は、「大和」は軍艦以上の文化的な価値ある造形物だ、とスケールの大きい話だった。
…50年たっても今だに戦艦大和、戦艦大和と、アニメになったりもあるんでしょうけども、何年たっても日本人が忘れられない一つとして覚えられているのは何故だろう。
戦争の道具として戦艦とは、軍艦とは何か。一言でいえば大砲を積んでいるふねです。
特に大和の主砲は46センチという世界で一番大きい。そういうふねを造る時代ではなくなったこともあって、大和は一番大きな、最大最強の戦艦であり続けるでしょう。そういう意味もあって大和はいつまでも覚えられる。
と同時に大和は、あの時の日本は本当にエネルギーを、全精力を一点に集中して造り上げた造形物です。軍艦ではあるけど、日本人がつくりあげた最大の造形物であった。
近代工業国家とは何か、を一口で言うならば、戦艦を造れる国です。近代工業国家でなければ戦艦は造れない。戦艦という巨大な戦うふねの中にはあらゆる工業の部門の成果が詰め込まれている。近代工業国家として完備しないと戦艦は造れません。プロペラ一つつくれません。火薬、水圧、いわゆる近代工業国家が持っている工業力の総結集、総エネルギーが戦艦なのです。
日露戦争後の38年間で世界のどこの国も造れなかった素晴らしい戦艦を造るだけの爆発力、創造力を日本は持っていた。
一点集中主義ですけど、大和はただ戦争のための道具をつくったという意味を超えて、日本人が造った最も素晴らしい造形物の一つだと思います。
日本には三重の塔とか五重の塔とか、世界の文化遺産となった姫路城とかありますけど、近代国家になってからの明治以降、最大最高の建造物は、創造物は戦艦大和だったのです。
ただのいくさぶねではない、ただの人殺しぶねではない。戦争の道具のためだけの造形物ではない。
巨大にして精密なものを造るには単なる技術力だけでは駄目です。文化の力を持っていないと造れない。
日本人はオーケストラ的なものを造るのは非常に下手ですが、「大和」だけは見事に、奇跡的に造り上げた実にオーケストラ的で文化的な戦闘的創造物です。
日本人が初めて造った巨大にして壮大なオーケストラのような建造物です。
「大和」がある意味で日本人の心を、精神を象徴した造形物である、とここで言っておきたい。
単なるどこも造っていない大きな大砲を持ったふねを造ったのではなく、ああいうものを造るという精神、日本人が戦う時はああいうものを造れるというその一つの象徴であるような気がしてしかたがないのです。
世界の大国の中で持久戦的な、正面からぶつかるという直球型の造形物を明治になってつくって見せた。時として日本人は造ればこういう正面切った剛速球の、オーケストラ的なものも造りうるんだ、という記念碑、とても悲しい記念碑ですが、それが戦艦大和だと思います…
戦争の道具として戦艦とは、軍艦とは何か。一言でいえば大砲を積んでいるふねです。
特に大和の主砲は46センチという世界で一番大きい。そういうふねを造る時代ではなくなったこともあって、大和は一番大きな、最大最強の戦艦であり続けるでしょう。そういう意味もあって大和はいつまでも覚えられる。
と同時に大和は、あの時の日本は本当にエネルギーを、全精力を一点に集中して造り上げた造形物です。軍艦ではあるけど、日本人がつくりあげた最大の造形物であった。
近代工業国家とは何か、を一口で言うならば、戦艦を造れる国です。近代工業国家でなければ戦艦は造れない。戦艦という巨大な戦うふねの中にはあらゆる工業の部門の成果が詰め込まれている。近代工業国家として完備しないと戦艦は造れません。プロペラ一つつくれません。火薬、水圧、いわゆる近代工業国家が持っている工業力の総結集、総エネルギーが戦艦なのです。
日露戦争後の38年間で世界のどこの国も造れなかった素晴らしい戦艦を造るだけの爆発力、創造力を日本は持っていた。
一点集中主義ですけど、大和はただ戦争のための道具をつくったという意味を超えて、日本人が造った最も素晴らしい造形物の一つだと思います。
日本には三重の塔とか五重の塔とか、世界の文化遺産となった姫路城とかありますけど、近代国家になってからの明治以降、最大最高の建造物は、創造物は戦艦大和だったのです。
ただのいくさぶねではない、ただの人殺しぶねではない。戦争の道具のためだけの造形物ではない。
巨大にして精密なものを造るには単なる技術力だけでは駄目です。文化の力を持っていないと造れない。
日本人はオーケストラ的なものを造るのは非常に下手ですが、「大和」だけは見事に、奇跡的に造り上げた実にオーケストラ的で文化的な戦闘的創造物です。
日本人が初めて造った巨大にして壮大なオーケストラのような建造物です。
「大和」がある意味で日本人の心を、精神を象徴した造形物である、とここで言っておきたい。
単なるどこも造っていない大きな大砲を持ったふねを造ったのではなく、ああいうものを造るという精神、日本人が戦う時はああいうものを造れるというその一つの象徴であるような気がしてしかたがないのです。
世界の大国の中で持久戦的な、正面からぶつかるという直球型の造形物を明治になってつくって見せた。時として日本人は造ればこういう正面切った剛速球の、オーケストラ的なものも造りうるんだ、という記念碑、とても悲しい記念碑ですが、それが戦艦大和だと思います…
このシンポジウムでの早坂氏の他の発言を収録する。
…大和は沈められて悲劇の運命をたどる訳ですが、その誕生自体が既に悲劇であった。
日本人は船を造るのが下手だった。木切れをつないだような船ですから、波がきたらねじれてばらばらになる。遣唐使船がそうだった。こういう船をずーと造り続けてきた。これだけ海に囲まれていながら、なぜ沖に出ても沈まない船をつくらなかったのか。本当に不思議です。
日本人は渚の民なのです。出かけていく民ではなくて、渚で漂着物を待っている民族です。
竜骨の思想がなかった。幕末、下田でロシアの難破船がきて、その乗組員の指導で伊豆の船大工が初めて竜骨の船をつくった。
明治になって列強と植民地化が押し寄せる中で戦わなければならない。戦い方も武器も西洋風です。よその国のルール、スタイルで戦わねばならない。
「大和」は日本人が考えるものとは違います。これが一つの悲劇です。
造った最強の軍艦は石油でしか動かない。日本に石油はない。これだけの最強のものを造りながら、燃料が自分の国にないものを造って戦わなければならない。これ自体が非常な悲劇だった。
ですから、油がある間に戦おう、となる。締め付けられて油がなくなった時には一矢も報いることができなくなる。じり貧になって自滅するよりかは戦おう、と追いつめられた形で戦闘に踏み切る。
「大和」や軍艦を造って、それが石油という燃料でしか戦えないという発想の時点から悲劇がある。
「大和」を造る段階では「完勝する、絶対勝つ、不敗の武器」であったはずだが、完成した頃はそうじゃない。飛行機という違うルール、そんなルールがあるのか、というようなルールになってしまった。
その新しいルールをつくった人は「大和」に乗る山本五十六さんなのです。「大和」に乗る司令官が、「飛行機で軍艦は沈められる」をのっけから見せた。
非常に不思議な皮肉な運命だと思う。自分の軍艦に乗ってくれる司令官がつくりだした新しいルールによって、不敗だったはずの「大和」がその飛行機によって沈められてしまう。「大和」を造った時は、あんな戦い方で戦争をするはずではなかった。出てきた時はルールが違う。そんなルールは知らなかったぞ、と大急ぎでいろいろ対処したが、全く違うルールで戦わねばいけなかった。
僕はギリシャ的な性格悲劇を「大和」に感じる。だから僕たちは「大和」の滅亡に対して格別な思いがある訳です。
まるで、ハムレットやギリシャ悲劇を見るような、そういう運命を「大和」に見てしまう。発想した時から既に滅亡が予測されている。絶対負けないはずの巨人が、現れた時はもう滅亡の運命を担っていたのです。
その滅亡の原因は、自分を支配している、乗っている山本五十六さんが創りだした戦法、ルールですね。そのルールによって自分が沈まなきゃいけない。
何という悲劇だろうと、僕は思うのです。「大和」をまるでハムレットを見るような実に古典的な堂々たる悲劇として、いつまでも「大和」の物語は残るものだと思って、僕はそういう意味で書いているのです。
日本人は船を造るのが下手だった。木切れをつないだような船ですから、波がきたらねじれてばらばらになる。遣唐使船がそうだった。こういう船をずーと造り続けてきた。これだけ海に囲まれていながら、なぜ沖に出ても沈まない船をつくらなかったのか。本当に不思議です。
日本人は渚の民なのです。出かけていく民ではなくて、渚で漂着物を待っている民族です。
竜骨の思想がなかった。幕末、下田でロシアの難破船がきて、その乗組員の指導で伊豆の船大工が初めて竜骨の船をつくった。
明治になって列強と植民地化が押し寄せる中で戦わなければならない。戦い方も武器も西洋風です。よその国のルール、スタイルで戦わねばならない。
「大和」は日本人が考えるものとは違います。これが一つの悲劇です。
造った最強の軍艦は石油でしか動かない。日本に石油はない。これだけの最強のものを造りながら、燃料が自分の国にないものを造って戦わなければならない。これ自体が非常な悲劇だった。
ですから、油がある間に戦おう、となる。締め付けられて油がなくなった時には一矢も報いることができなくなる。じり貧になって自滅するよりかは戦おう、と追いつめられた形で戦闘に踏み切る。
「大和」や軍艦を造って、それが石油という燃料でしか戦えないという発想の時点から悲劇がある。
「大和」を造る段階では「完勝する、絶対勝つ、不敗の武器」であったはずだが、完成した頃はそうじゃない。飛行機という違うルール、そんなルールがあるのか、というようなルールになってしまった。
その新しいルールをつくった人は「大和」に乗る山本五十六さんなのです。「大和」に乗る司令官が、「飛行機で軍艦は沈められる」をのっけから見せた。
非常に不思議な皮肉な運命だと思う。自分の軍艦に乗ってくれる司令官がつくりだした新しいルールによって、不敗だったはずの「大和」がその飛行機によって沈められてしまう。「大和」を造った時は、あんな戦い方で戦争をするはずではなかった。出てきた時はルールが違う。そんなルールは知らなかったぞ、と大急ぎでいろいろ対処したが、全く違うルールで戦わねばいけなかった。
僕はギリシャ的な性格悲劇を「大和」に感じる。だから僕たちは「大和」の滅亡に対して格別な思いがある訳です。
まるで、ハムレットやギリシャ悲劇を見るような、そういう運命を「大和」に見てしまう。発想した時から既に滅亡が予測されている。絶対負けないはずの巨人が、現れた時はもう滅亡の運命を担っていたのです。
その滅亡の原因は、自分を支配している、乗っている山本五十六さんが創りだした戦法、ルールですね。そのルールによって自分が沈まなきゃいけない。
何という悲劇だろうと、僕は思うのです。「大和」をまるでハムレットを見るような実に古典的な堂々たる悲劇として、いつまでも「大和」の物語は残るものだと思って、僕はそういう意味で書いているのです。
「大和」をどう考えるか、は本当に難しくて根深いものがある。広島市の原爆の隣に呉市の「大和」がある。話しづらい。
が、僕は西洋型の科学を基にした科学文明のシステムの花を咲かしたのはここ呉市の呉海軍工廠だけだった、と思う。
何千という技術が集まっている。それをシステムでコントロールしながら造りあげていく。これを唯一やったのは「大和」をつくった呉の工廠です。
このシステムがあったから熟練工たちが魔法みたいな手法で小さなネジから線を引くまでといろいろなものを造りあげる技術をうまく集めてコントロールし、抑制し、伸ばすことができた。
そういうシステムを大集団でつくった。明治百年以降、日本で唯一、見事に成果が開いた所です。
が、僕は西洋型の科学を基にした科学文明のシステムの花を咲かしたのはここ呉市の呉海軍工廠だけだった、と思う。
何千という技術が集まっている。それをシステムでコントロールしながら造りあげていく。これを唯一やったのは「大和」をつくった呉の工廠です。
このシステムがあったから熟練工たちが魔法みたいな手法で小さなネジから線を引くまでといろいろなものを造りあげる技術をうまく集めてコントロールし、抑制し、伸ばすことができた。
そういうシステムを大集団でつくった。明治百年以降、日本で唯一、見事に成果が開いた所です。
ところが、あそこは軍艦を造ったところだから、という風なかたちで片付けられる。そうじゃあないんです。たまたま戦う船を造ったんですけど、「大和」を造るシステムが本当に根付いた非常な成果だったと思います。ほかにありません。自動車がありますけどたかがしれています。これを持ってきた西欧の人も驚くほどの見事なシステムを組んだ。
システムなんです。戦艦大和の戦艦をかっこに入れて、システム大和と、日本が明治で生まれ変わった時に大きな文明的な成果が根付いたモニュメントだと。戦争、戦争という色をかぶせていくとどうも具合が悪い、もう一つ、見えにくい部分が出てきます。もっと見える部分があると思います…
システムなんです。戦艦大和の戦艦をかっこに入れて、システム大和と、日本が明治で生まれ変わった時に大きな文明的な成果が根付いたモニュメントだと。戦争、戦争という色をかぶせていくとどうも具合が悪い、もう一つ、見えにくい部分が出てきます。もっと見える部分があると思います…
戦後50周年事業として呉市が共催で開いた同シンポジウムで早坂さんの言葉は呉市民から大きな拍手を受けた。
被爆都市広島市が平和を発信する一方、戦艦大和を建造し、軍港だった呉市は戦後、戦犯都市の負い目を感じてきた。そこへ「夢千代日記」「花へんろ」など人気テレビドラマの脚本家である早坂さんが戦艦大和を造形物という観点から、また建造した呉海軍工廠をシステムの観点から評価してくれたのだ。私には感謝と安堵の拍手に聞こえた。
被爆都市広島市が平和を発信する一方、戦艦大和を建造し、軍港だった呉市は戦後、戦犯都市の負い目を感じてきた。そこへ「夢千代日記」「花へんろ」など人気テレビドラマの脚本家である早坂さんが戦艦大和を造形物という観点から、また建造した呉海軍工廠をシステムの観点から評価してくれたのだ。私には感謝と安堵の拍手に聞こえた。
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
問い合わせ、ご指摘、ご意見はCONTACTよりお願いします。
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
問い合わせ、ご指摘、ご意見はCONTACTよりお願いします。