1993(平成5)年4月、戦艦大和で食事を担当する主計兵だった丸野正八さん(74)を療養先の広島市内の病院で取材した。
丸野さんは「大和」の艤装当初から乗り組み、沖縄海上特攻作戦から生還した。海軍内の食事風景の話が興味深く、また独特の言い回し、「あの男は行き足が速い」は積極性、「泳いだ」とは沈没経験がある、などを聞き直したりしているうちに取材は3回に及んだ。
丸野さんは戦後、広島市内で映画館を経営した。そのかたわら、戦艦大和会の世話役をしてきた。その第一の仕事は呉市上長迫町の呉海軍墓地に追悼碑を建立することだった。
石田恒夫会長と共に1978(昭和53)年から準備を始めた。
石は愛媛県西条市産の青石が選ばれた。高さ約3・8メートルの大石だ。場所は同墓地正面の間口10メートルに石垣を組んでつくった。が、碑名が決まらなかった。先行して建つ他の碑は「駆逐艦島風戦没者之碑」や「軍艦伊勢慰霊碑」などと戦没者、慰霊という言葉が多く使われていた。
が、沖縄海上特攻作戦に殉じた戦艦としては、戦没者、慰霊とは言えない気持ちがあった。
除幕式の1979(昭和54)年4月7日が迫ってきたある日、碑名について石田恒夫会長から丸野さんに相談があった。「事実そのままで行きましょう。戦死者の碑です。戦艦大和戦死者之碑です」と答えたら、そのまま碑名となった。
直裁簡明なこの碑名は呉海軍墓地で異彩を放つ。慰霊も追悼の言葉もない碑名は戦艦特攻の悲憤を突きつけているようだ。
3回目の取材が終わって帰ろうとしたら、丸野さんはあらたまった顔つきで言った。
「渡辺さん、『大和』と付き合うのはこれを最後にしなさい。忠告です」
丸野さんは「大和」の艤装当初から乗り組み、沖縄海上特攻作戦から生還した。海軍内の食事風景の話が興味深く、また独特の言い回し、「あの男は行き足が速い」は積極性、「泳いだ」とは沈没経験がある、などを聞き直したりしているうちに取材は3回に及んだ。
丸野さんは戦後、広島市内で映画館を経営した。そのかたわら、戦艦大和会の世話役をしてきた。その第一の仕事は呉市上長迫町の呉海軍墓地に追悼碑を建立することだった。
石田恒夫会長と共に1978(昭和53)年から準備を始めた。
石は愛媛県西条市産の青石が選ばれた。高さ約3・8メートルの大石だ。場所は同墓地正面の間口10メートルに石垣を組んでつくった。が、碑名が決まらなかった。先行して建つ他の碑は「駆逐艦島風戦没者之碑」や「軍艦伊勢慰霊碑」などと戦没者、慰霊という言葉が多く使われていた。
が、沖縄海上特攻作戦に殉じた戦艦としては、戦没者、慰霊とは言えない気持ちがあった。
除幕式の1979(昭和54)年4月7日が迫ってきたある日、碑名について石田恒夫会長から丸野さんに相談があった。「事実そのままで行きましょう。戦死者の碑です。戦艦大和戦死者之碑です」と答えたら、そのまま碑名となった。
直裁簡明なこの碑名は呉海軍墓地で異彩を放つ。慰霊も追悼の言葉もない碑名は戦艦特攻の悲憤を突きつけているようだ。
3回目の取材が終わって帰ろうとしたら、丸野さんはあらたまった顔つきで言った。
「渡辺さん、『大和』と付き合うのはこれを最後にしなさい。忠告です」
…「大和」の話を聞きたい、とこれまで何人も取材にきた。私の話を聞いてさらに深みに入り、会社はやめる、妻子を捨てるか、逃げられる、という人が何人もいた。「大和」は国を滅亡に引きずり込んだ魔性のフネです。「大和」に近づいてはいけません…
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
問い合わせ、ご指摘、ご意見はCONTACTよりお願いします。
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