戦艦「大和」の原点をたずねて―と題する講演が2018(平成30)年12月25日、広島県呉市のくれ絆ホールであった。講師は千田武志氏(72)。呉市史編さん室(現在は呉市史編さんグループ)室長を務め、今は呉市参与。広島国際大学教授を経て同大名誉教授でもある。
同年2月、「呉海軍工廠の形成」を刊行した。804ページに及ぶ大部な著書だ。講演はこの本を基にしている。①
海軍工廠とは、海軍の艦船を建造、修理し、搭載する大砲などの兵器類、機関などを製作する官営工場をいう。横須賀、呉、佐世保、舞鶴の4カ所に設置されたが、呉海軍工廠は特別な役割を持った。戦艦建造だ。
戦艦は国の浮沈を担う決戦兵器と目された。直撃弾を跳ね返す強靱な甲鈑を纏い、相手の砲弾が届かない遠距離から打ち込むことができる主砲を搭載する。主砲の能力は敵国のそれを凌駕すべきである、が建前だ。従って自国戦艦の砲弾に耐えうる甲鈑を備えれば、不沈戦艦と豪語できる。
呉海軍工廠が戦艦大和を建造した時、戦艦大和は不沈艦と信じられた。口径46センチの主砲は世界最強だから、その主砲から繰り出される砲弾に耐えるのであれば、その艦は沈むはずがないと。
言葉遊びの類だが、軍事、防衛の世界では言葉遊びが武器となる。「不沈艦」という言葉を「大和」の将兵がいかに信じ、頼りにしたか、は私が「大和」に取り組むテーマの一つだ。
戦艦大和を建造することになる呉海軍工廠は1903(明治36)年に設立された。千田氏の著書「呉海軍工廠の形成」は同工廠が設立されるまでの準備期間、17年間を記述する。呉海軍工廠の前史だが、千田氏は、「呉海軍工廠の総力を結集して巨艦『大和』を建造しながら、効果的な活用ができなかった昭和期の海軍像の源基形体のように思われる」と記述する。
その萌芽の中に、無用の長物、戦艦大和を全力で建造する「日本海軍」という組織の病理が潜んでいた、戦艦大和は、明治日本が始まった時から生まれる運命にあった、というのだろう。
日本の近代技術史の著作の多くは、先進国の技術をいかに採り入れ、模倣、国産化してきたか、つまり「技術移転」を分析する。②
千田氏は、技術史の先行業績を踏まえて、呉海軍工廠前史の史料分析に用いた視点を「武器移転的視角」と呼ぶ。
日本海軍はイギリスの造船所やフランスのホッチキスなどの兵器メーカーに発注すると、優秀な技術者を派遣した。現地で製造と運用の技術を習得し、帰国すると海軍工廠において、輸入した兵器の改造や修理を指導する。職工は先進技術を習得し、熟練工となる。この経過を長期計画のもとで繰り返した。
その問題意識である「武器移転的視角」から見ると、欧米の先進技術に追いつき、追い越そうとする日本の軍事技術を支えた呉海軍工廠の運命を暗示する。
「追いついた」と思った「大和」は無用の長物だったのだ。
同年2月、「呉海軍工廠の形成」を刊行した。804ページに及ぶ大部な著書だ。講演はこの本を基にしている。①
海軍工廠とは、海軍の艦船を建造、修理し、搭載する大砲などの兵器類、機関などを製作する官営工場をいう。横須賀、呉、佐世保、舞鶴の4カ所に設置されたが、呉海軍工廠は特別な役割を持った。戦艦建造だ。
戦艦は国の浮沈を担う決戦兵器と目された。直撃弾を跳ね返す強靱な甲鈑を纏い、相手の砲弾が届かない遠距離から打ち込むことができる主砲を搭載する。主砲の能力は敵国のそれを凌駕すべきである、が建前だ。従って自国戦艦の砲弾に耐えうる甲鈑を備えれば、不沈戦艦と豪語できる。
呉海軍工廠が戦艦大和を建造した時、戦艦大和は不沈艦と信じられた。口径46センチの主砲は世界最強だから、その主砲から繰り出される砲弾に耐えるのであれば、その艦は沈むはずがないと。
言葉遊びの類だが、軍事、防衛の世界では言葉遊びが武器となる。「不沈艦」という言葉を「大和」の将兵がいかに信じ、頼りにしたか、は私が「大和」に取り組むテーマの一つだ。
戦艦大和を建造することになる呉海軍工廠は1903(明治36)年に設立された。千田氏の著書「呉海軍工廠の形成」は同工廠が設立されるまでの準備期間、17年間を記述する。呉海軍工廠の前史だが、千田氏は、「呉海軍工廠の総力を結集して巨艦『大和』を建造しながら、効果的な活用ができなかった昭和期の海軍像の源基形体のように思われる」と記述する。
その萌芽の中に、無用の長物、戦艦大和を全力で建造する「日本海軍」という組織の病理が潜んでいた、戦艦大和は、明治日本が始まった時から生まれる運命にあった、というのだろう。
日本の近代技術史の著作の多くは、先進国の技術をいかに採り入れ、模倣、国産化してきたか、つまり「技術移転」を分析する。②
千田氏は、技術史の先行業績を踏まえて、呉海軍工廠前史の史料分析に用いた視点を「武器移転的視角」と呼ぶ。
日本海軍はイギリスの造船所やフランスのホッチキスなどの兵器メーカーに発注すると、優秀な技術者を派遣した。現地で製造と運用の技術を習得し、帰国すると海軍工廠において、輸入した兵器の改造や修理を指導する。職工は先進技術を習得し、熟練工となる。この経過を長期計画のもとで繰り返した。
その問題意識である「武器移転的視角」から見ると、欧米の先進技術に追いつき、追い越そうとする日本の軍事技術を支えた呉海軍工廠の運命を暗示する。
「追いついた」と思った「大和」は無用の長物だったのだ。
① 千田武志著「呉海軍工廠の形成」=錦正社2019(平成31)年2月刊
② 千田氏は中岡哲郎、佐藤昌一郎、奈倉文二各氏の名前を挙げる。
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