当時の戦艦の砲塔内に入るには雨カッパを着けていかないとズブ濡れになるのが常であった。われわれの先輩の武石太郎氏は横須賀海軍工廠で戦艦金剛の主砲を持ち上げる角度を高める工事で自らハンドルを握り、試験をしたが、漏水でズブ濡れとなり、風邪をひいて胸を害された…①
戰艦金剛(基準排水量26,330㌧)は1929(昭和4)年から2年間、第1次改装に入っていた。砲塔内のずぶ濡れはその時の話だ。
海軍は1930(昭和5)年1月、砲戦教範草案を制定、発布した。砲戦で一番大事なこととして「速やかに命中弾を得、爾後命中速度及び命中効果を極度に発揮し、もって敵を殲滅し…」と掲げる。②
「速やかに命中弾を得」は初弾命中の域に達する照準能力を求める。見張り員の能力を高め、照準装置や射撃盤を駆使する。
「命中速度及び命中効果を極度に発揮し」の意味するところは、主砲の砲弾を連続発射して大量の鉄量を敵艦に叩き込み、敵艦内に入り込んだ砲弾が時間をおいて敵艦内で爆発するように遅発信管を開発するなどして砲弾の威力を高める、にある。
戦艦大和の主砲は敵艦の主砲砲弾の到達距離外から打ち込む。その砲弾は1460kgという乗用車の自重に等しい巨弾だ。その巨弾を約40秒間に1発という間隔で連続発射する。③
いかに短時間で連続発射を可能にするかは、10メートル下の艦底から巨弾と装薬を揚げる装置、砲塔の巻き上げ能力にかかる。
巻き上げる力、さらに照準に合わせて砲身を上げたり下げたりする力の伝達は水圧に頼った。パイプ内の水を栓で押して力を伝える。
問題は栓とパイプの間にすき間を埋めるパッキンの能力だ。パッキンの材質はゴム、皮革、木綿などがあるが、旧海軍は皮革を使った。すり減るとすき間ができ、水が漏れる。伝達する力は弱まり、巻き上げる速度は遅くなる。また、発射後の砲身を水平に戻して次の砲弾を装填する時間がかかる。
1918(大正7)年、東京大学工学部を卒業した渡辺武は海軍に入り、主砲の砲塔組立、同修理を担当した。横須賀海軍工廠で造兵中尉だった1920(大正9)年ごろの思い出では、主砲関係の修理件数のうち、パッキン交換が15%から20%に及んだ。④
1922(大正11)年のワシントン海軍軍縮条約は主要兵器や戦艦などの艦艇の保有比率を英米日で五五三の比率とした。日本海軍は数の劣勢を訓練で補う、いわゆる月月火水木金金の猛訓練となった。
砲塔の訓練が激しくなると、砲塔の漏水が問題となった。戦艦の砲塔内は雨合羽を着用しないとずぶ濡れとなる有様だった。
当時、革パッキンを多く使用した分野は海軍と鉄道だ。
鉄道では車両の振動をやわらげる空気制動筒に使った。
海軍では砲塔部分で多く使われた。主砲を上げ下げする俯仰、砲塔の向きを変える旋回、主砲に弾を込める装填、砲弾や装薬を艦底から巻き上げる運弾、運薬等の操作を水圧に頼った。砲塔自体が一個の水圧機械だった。
砲塔に莫大な数の革パッキンが使われていたが、訓練が激しくなるにつれ、革パッキンの摩滅がはやくなり、漏水が大量にでた。新兵は砲塔内にたまった漏水の排水が日課となり、砲塔全体の動きが緩慢となった。
緊迫する国際情勢を反映して海軍はワシントン海軍軍縮条約の期限切れとなる1932(昭和7)年を目前に戦艦大和を中心とする大艦隊の建艦を計画していた。また、ワシントン海軍軍縮条約の制限下で在来艦の能力を高める改装が進んでいた。
呉海軍工廠砲熕部の工場主任として着任した渡辺武の述懐。
「一艦の砲熕威力は一定時間内に発射できる弾数によって定まる。よって発射間隔の短縮は戦闘上の絶対要求である」
「軍艦における大砲の威力がいささかでも低下するのは国防を担う海軍として許しがたい重大問題である」
「ひどい状況にある砲塔の漏水を施す術もなく見送っているのは、技術官の職責を全うしたものとはいえない」
「ここに於いて革パッキンの研究は私に課せられた使命としてやらなければならぬ、との決心がついたのである。時は1930(昭和5)年のころであった」
海軍は1930(昭和5)年1月、砲戦教範草案を制定、発布した。砲戦で一番大事なこととして「速やかに命中弾を得、爾後命中速度及び命中効果を極度に発揮し、もって敵を殲滅し…」と掲げる。②
「速やかに命中弾を得」は初弾命中の域に達する照準能力を求める。見張り員の能力を高め、照準装置や射撃盤を駆使する。
「命中速度及び命中効果を極度に発揮し」の意味するところは、主砲の砲弾を連続発射して大量の鉄量を敵艦に叩き込み、敵艦内に入り込んだ砲弾が時間をおいて敵艦内で爆発するように遅発信管を開発するなどして砲弾の威力を高める、にある。
戦艦大和の主砲は敵艦の主砲砲弾の到達距離外から打ち込む。その砲弾は1460kgという乗用車の自重に等しい巨弾だ。その巨弾を約40秒間に1発という間隔で連続発射する。③
いかに短時間で連続発射を可能にするかは、10メートル下の艦底から巨弾と装薬を揚げる装置、砲塔の巻き上げ能力にかかる。
巻き上げる力、さらに照準に合わせて砲身を上げたり下げたりする力の伝達は水圧に頼った。パイプ内の水を栓で押して力を伝える。
問題は栓とパイプの間にすき間を埋めるパッキンの能力だ。パッキンの材質はゴム、皮革、木綿などがあるが、旧海軍は皮革を使った。すり減るとすき間ができ、水が漏れる。伝達する力は弱まり、巻き上げる速度は遅くなる。また、発射後の砲身を水平に戻して次の砲弾を装填する時間がかかる。
1918(大正7)年、東京大学工学部を卒業した渡辺武は海軍に入り、主砲の砲塔組立、同修理を担当した。横須賀海軍工廠で造兵中尉だった1920(大正9)年ごろの思い出では、主砲関係の修理件数のうち、パッキン交換が15%から20%に及んだ。④
1922(大正11)年のワシントン海軍軍縮条約は主要兵器や戦艦などの艦艇の保有比率を英米日で五五三の比率とした。日本海軍は数の劣勢を訓練で補う、いわゆる月月火水木金金の猛訓練となった。
砲塔の訓練が激しくなると、砲塔の漏水が問題となった。戦艦の砲塔内は雨合羽を着用しないとずぶ濡れとなる有様だった。
当時、革パッキンを多く使用した分野は海軍と鉄道だ。
鉄道では車両の振動をやわらげる空気制動筒に使った。
海軍では砲塔部分で多く使われた。主砲を上げ下げする俯仰、砲塔の向きを変える旋回、主砲に弾を込める装填、砲弾や装薬を艦底から巻き上げる運弾、運薬等の操作を水圧に頼った。砲塔自体が一個の水圧機械だった。
砲塔に莫大な数の革パッキンが使われていたが、訓練が激しくなるにつれ、革パッキンの摩滅がはやくなり、漏水が大量にでた。新兵は砲塔内にたまった漏水の排水が日課となり、砲塔全体の動きが緩慢となった。
緊迫する国際情勢を反映して海軍はワシントン海軍軍縮条約の期限切れとなる1932(昭和7)年を目前に戦艦大和を中心とする大艦隊の建艦を計画していた。また、ワシントン海軍軍縮条約の制限下で在来艦の能力を高める改装が進んでいた。
呉海軍工廠砲熕部の工場主任として着任した渡辺武の述懐。
「一艦の砲熕威力は一定時間内に発射できる弾数によって定まる。よって発射間隔の短縮は戦闘上の絶対要求である」
「軍艦における大砲の威力がいささかでも低下するのは国防を担う海軍として許しがたい重大問題である」
「ひどい状況にある砲塔の漏水を施す術もなく見送っているのは、技術官の職責を全うしたものとはいえない」
「ここに於いて革パッキンの研究は私に課せられた使命としてやらなければならぬ、との決心がついたのである。時は1930(昭和5)年のころであった」
① 東京大学工学部造兵精密同窓会誌大樹掲載の渡辺武「パッキンと私の因縁(その一)」。掲載号、年月日は調査中。文中の武石太郎氏は1910(明治43)年、東京大学工学部卒、後に技術少将となる。
② 海軍砲術史326ページ=水交会内海軍砲術史刊行会(新見政一会長)刊1975(昭和50)年1月
③ 戦艦大和の主砲砲弾の重量について、設計陣の一人、松本喜太郎が著書「戦艦大和設計と建造」で1460kgと紹介し、戦艦大和関連の書物はこの数字を挙げている。が、日新製鋼呉製鉄所に勤務するかたわら呉海軍工廠の砲熕部、製鋼部を研究する山田太郎氏は1520kgが正しいと主張する。砲熕部で製造された段階で1460kg、火工部で炸薬、信管の関係部品を取り付けており、1520kgになる、という。山田氏は「呉海軍工廠造兵部史料集成」全3巻を刊行している。
④ 東京大学工学部造兵精密同窓会誌大樹掲載の渡辺武「パッキンと私の因縁(その一)」。掲載号、年月日は調査中
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
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