「私は嫌われ者でした。みなさんの仕事ぶりをストップ・ウォッチで測る係でした」
筒井庄爾さんは呉海軍工廠の元工員たちに申し訳なさそうな顔付きで自己紹介した。
筒井庄爾さんは呉海軍工廠の元工員たちに申し訳なさそうな顔付きで自己紹介した。
朝日新聞呉支局長だった私は戦艦大和の建造に従事した現場の人を知りたいと1994(平成6)年4月23日、広島県呉市中央6丁目、呉市つばき会館で呉海軍工廠座談会を開いた。
戦艦大和が沈んだ1945(昭和20)年4月7日から49年たったこの年は仏式の50回忌にあたった。この年の4月7日に、生還した元乗組員を中心とした戦艦大和会(細田久一会長)が慰霊祭を呉市内の呉海軍墓地で営んだ。この取材をきっかけに翌年の沈没50周年企画に備えて建造について調べを始めた。
当初、戦艦大和の設計を担当した呉市上畑町、松浦徳義さん(当時78)に話を聞いたが、こちらの知識が余りにも初学者だったのか「みなさんに集まってもらいましょう」と座談会の便宜を図ってくれた。
出席を快諾してくれた元工員は13人。主砲、防禦甲鈑、高角砲や機銃の照準装置、電気などと各分野を網羅した顔ぶれだった。
筒井さんは砲熕部の工員で、仕事は現場の仕事ぶりを測ること。特に各工程の名人を数字と映像で記録した。現場の無駄をなくして作業の流れをよくする、工員の質を早く向上させる、という2点を実現するための資料づくりだ。
ワシントン海軍軍縮条約が期限切れとなる1932(昭和7)年に備えて1929(昭和4)年から呉工廠では材料の統制、工場、工作機械の配置変更など現場改善が進んだ。
ロンドン海軍軍縮条約が1930(昭和5)年に成立し、国際的な海軍軍縮は1936(昭和11)年まで延びた。呉工廠では在来艦の近代化工事が中心だった。が、軍縮条約の期限が切れた後の建艦競争に備えて呉工廠の現場そのものの近代化はさらに進められた。その先に戦艦大和の建造があった。
筒井さんの仕事は呉工廠近代化の一環を担っていた。
砲身をつくるためには、鋳鉄の棒身をくり抜く、熱しては冷ます、各層の砲身を嵌め合わせるなどの工程がある。その工程ごとにこの道何年という名人がいた。名人は工場に自分の事務所をつくり、なかでお茶をのんでいた。現場はのぞかないのに砲身が熱してきたらのっそりと出てきて、次の工程へ移すよう指示をだす。真っ赤に熱せられた砲身は深さ30メートルの油槽に沈み込む。焼き鈍(なま)しという工程だ。砲身鋼材の内部のひずみをとり、粘り強い固さをもたらす。
筒井さんは名人の仕事ぶりをストップ・ウォッチではかった。名人の勘を数字にするのだ。
名人がうつハンマーの動きを知るために名人の腕に豆球をいくつも貼り付け、写真にとった。名人の技を可視化して、一般工員が名人の技倆を早く真似ることができるようにする。
名人には名人気質が付きものだ。砲身を熱する工程の名人が機嫌を損ねると、作業は遅れ、次の工程である焼き鈍しの作業場は待たなければならない。
名人の技をいただきながら、名人の仕事ぶりに工場が左右されない、という工場管理を実現するデータ集めが筒井さんの仕事だった。当然、筒井さんは名人から白い目でにらまれた。
戦艦大和が沈んだ1945(昭和20)年4月7日から49年たったこの年は仏式の50回忌にあたった。この年の4月7日に、生還した元乗組員を中心とした戦艦大和会(細田久一会長)が慰霊祭を呉市内の呉海軍墓地で営んだ。この取材をきっかけに翌年の沈没50周年企画に備えて建造について調べを始めた。
当初、戦艦大和の設計を担当した呉市上畑町、松浦徳義さん(当時78)に話を聞いたが、こちらの知識が余りにも初学者だったのか「みなさんに集まってもらいましょう」と座談会の便宜を図ってくれた。
出席を快諾してくれた元工員は13人。主砲、防禦甲鈑、高角砲や機銃の照準装置、電気などと各分野を網羅した顔ぶれだった。
筒井さんは砲熕部の工員で、仕事は現場の仕事ぶりを測ること。特に各工程の名人を数字と映像で記録した。現場の無駄をなくして作業の流れをよくする、工員の質を早く向上させる、という2点を実現するための資料づくりだ。
ワシントン海軍軍縮条約が期限切れとなる1932(昭和7)年に備えて1929(昭和4)年から呉工廠では材料の統制、工場、工作機械の配置変更など現場改善が進んだ。
ロンドン海軍軍縮条約が1930(昭和5)年に成立し、国際的な海軍軍縮は1936(昭和11)年まで延びた。呉工廠では在来艦の近代化工事が中心だった。が、軍縮条約の期限が切れた後の建艦競争に備えて呉工廠の現場そのものの近代化はさらに進められた。その先に戦艦大和の建造があった。
筒井さんの仕事は呉工廠近代化の一環を担っていた。
砲身をつくるためには、鋳鉄の棒身をくり抜く、熱しては冷ます、各層の砲身を嵌め合わせるなどの工程がある。その工程ごとにこの道何年という名人がいた。名人は工場に自分の事務所をつくり、なかでお茶をのんでいた。現場はのぞかないのに砲身が熱してきたらのっそりと出てきて、次の工程へ移すよう指示をだす。真っ赤に熱せられた砲身は深さ30メートルの油槽に沈み込む。焼き鈍(なま)しという工程だ。砲身鋼材の内部のひずみをとり、粘り強い固さをもたらす。
筒井さんは名人の仕事ぶりをストップ・ウォッチではかった。名人の勘を数字にするのだ。
名人がうつハンマーの動きを知るために名人の腕に豆球をいくつも貼り付け、写真にとった。名人の技を可視化して、一般工員が名人の技倆を早く真似ることができるようにする。
名人には名人気質が付きものだ。砲身を熱する工程の名人が機嫌を損ねると、作業は遅れ、次の工程である焼き鈍しの作業場は待たなければならない。
名人の技をいただきながら、名人の仕事ぶりに工場が左右されない、という工場管理を実現するデータ集めが筒井さんの仕事だった。当然、筒井さんは名人から白い目でにらまれた。
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
問い合わせ、ご指摘、ご意見はCONTACTよりお願いします。
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
問い合わせ、ご指摘、ご意見はCONTACTよりお願いします。