筒井庄爾さんが話した広島県・呉海軍工廠時代のストップ・ウォッチはアメリカ生まれの経営理論「科学的管理法」に由来する。フレデリック・テーラー(1856-1915 Frederick Winslow Tylor)が1911(明治44)年に同名の経営書を刊行して知られるようになった。
アメリカの自動車工場にベルトコンベアによる流れ作業が現れたのは1901(明治34)年。1914年、フォード社のモデルT生産ラインでベルトコンベア効率化の頂点に達したが、テーラーの科学的管理法の成果だった。
呉海軍工廠は1919(大正8)年2月、テーラーの科学的管理法を導入した。アメリカ最新の経営理論が生まれて10年もたたない素早さだ。明治維新の1868(明治元)年から半世紀を過ぎたころだ。
そのいきさつを呉市史第六巻(呉市史編纂委員会編、呉市1988年刊)は2章を割いて詳述する。
同書は呉市にあった日本海軍の三大拠点、呉海軍鎮守府と呉海軍工廠、広海軍工廠について大正期から太平洋戦争敗戦に至る興亡を地元、呉市の視点からまとめている。当然、戦艦大和建造がクライマックスとなる構成だ。
呉工廠がいち早くテーラーの経営理論に関心を持ったきっかけは「当時、呉工廠砲熕部長の職にあった伍堂卓雄(ごどう たくお1877-1956)の果たした役割が、とくに大きかった」という。
伍堂は1901(明治34)年、東京帝大造兵学科を卒業し、海軍の造兵技術者となり、1926(大正15)年、技術畑の最高位である造兵中将に昇進した。呉工廠砲熕部長、呉工廠長を務め、呉勤務が長かった。退役後は商工大臣、貴族院議員、日本商工会議所会頭などを歴任した。
1942(昭和17)年、日本能率協会(Japan Management Association)の初代会長に就き、運営の三原則「日本的性格の能率運動」「理論より実行」「重点主義」は今も掲げられている。JMAはISO取得など企業、団体の経営革新を指導し、日本のもの造りを支える。
伍堂は呉勤務時代の途中、英米に監督官として駐在し、特に1917(大正6)年から2年間、アメリカ駐在の時に「科学的管理法」の現場を知り、関心をもった。
伍堂が「科学的管理法」に興味を抱いた理由は八八艦隊という大艦隊を実現するためだ。
八八艦隊とは、艦齢8年以内の戦艦、巡洋艦各8隻をそろえる、という艦隊構想で、第一次世界大戦が始まった1914(大正3)年から実現に動き出した。各年度を追って数を揃える長期計画で、1916(大正5)年度に八四艦隊の予算がついて、1917(大正6)年度八六艦隊、1920(大正9)年、念願の八八艦隊予算が議会で可決された。完成年度は1927年度で、11年をかけて実現しようとする大艦隊構想だ。①
八八艦隊の建艦は海軍工廠だけではまかないきれない。民間造船所を動員するため伍堂は「科学的管理法」を導入した。
…私ガ呉工廠ノ砲熕部長時代ニコノ科学的管理法ヲ採用シマシタ動機ハ…
として
…この八八艦隊の計画を実施する為には海軍工廠の製造力は不足であって、…分業製作法および互換性工作法により民間の工業力をできる限り利用することによるの外はないと考えました。…私は米国に駐在しておりまして、戦争中、軍需品の多量生産法を目撃いたしましたので、その方法に倣はんとしたのであります…②
工廠と民間の各工場の間で共通して使えるように部品の規格を統一し、互換性をもち、大量生産とコストダウンを図ろう、というのだ。
アメリカの自動車工場にベルトコンベアによる流れ作業が現れたのは1901(明治34)年。1914年、フォード社のモデルT生産ラインでベルトコンベア効率化の頂点に達したが、テーラーの科学的管理法の成果だった。
呉海軍工廠は1919(大正8)年2月、テーラーの科学的管理法を導入した。アメリカ最新の経営理論が生まれて10年もたたない素早さだ。明治維新の1868(明治元)年から半世紀を過ぎたころだ。
そのいきさつを呉市史第六巻(呉市史編纂委員会編、呉市1988年刊)は2章を割いて詳述する。
同書は呉市にあった日本海軍の三大拠点、呉海軍鎮守府と呉海軍工廠、広海軍工廠について大正期から太平洋戦争敗戦に至る興亡を地元、呉市の視点からまとめている。当然、戦艦大和建造がクライマックスとなる構成だ。
呉工廠がいち早くテーラーの経営理論に関心を持ったきっかけは「当時、呉工廠砲熕部長の職にあった伍堂卓雄(ごどう たくお1877-1956)の果たした役割が、とくに大きかった」という。
伍堂は1901(明治34)年、東京帝大造兵学科を卒業し、海軍の造兵技術者となり、1926(大正15)年、技術畑の最高位である造兵中将に昇進した。呉工廠砲熕部長、呉工廠長を務め、呉勤務が長かった。退役後は商工大臣、貴族院議員、日本商工会議所会頭などを歴任した。
1942(昭和17)年、日本能率協会(Japan Management Association)の初代会長に就き、運営の三原則「日本的性格の能率運動」「理論より実行」「重点主義」は今も掲げられている。JMAはISO取得など企業、団体の経営革新を指導し、日本のもの造りを支える。
伍堂は呉勤務時代の途中、英米に監督官として駐在し、特に1917(大正6)年から2年間、アメリカ駐在の時に「科学的管理法」の現場を知り、関心をもった。
伍堂が「科学的管理法」に興味を抱いた理由は八八艦隊という大艦隊を実現するためだ。
八八艦隊とは、艦齢8年以内の戦艦、巡洋艦各8隻をそろえる、という艦隊構想で、第一次世界大戦が始まった1914(大正3)年から実現に動き出した。各年度を追って数を揃える長期計画で、1916(大正5)年度に八四艦隊の予算がついて、1917(大正6)年度八六艦隊、1920(大正9)年、念願の八八艦隊予算が議会で可決された。完成年度は1927年度で、11年をかけて実現しようとする大艦隊構想だ。①
八八艦隊の建艦は海軍工廠だけではまかないきれない。民間造船所を動員するため伍堂は「科学的管理法」を導入した。
…私ガ呉工廠ノ砲熕部長時代ニコノ科学的管理法ヲ採用シマシタ動機ハ…
として
…この八八艦隊の計画を実施する為には海軍工廠の製造力は不足であって、…分業製作法および互換性工作法により民間の工業力をできる限り利用することによるの外はないと考えました。…私は米国に駐在しておりまして、戦争中、軍需品の多量生産法を目撃いたしましたので、その方法に倣はんとしたのであります…②
工廠と民間の各工場の間で共通して使えるように部品の規格を統一し、互換性をもち、大量生産とコストダウンを図ろう、というのだ。
① 青木栄一「日本海軍と艦艇80年の歩み」=写真日本海軍全艦艇史上巻(福井静夫著ベストセラーズ1994年刊)▽日本海軍史第3巻通史第4編軍縮の時代第2節軍縮会議=財団法人海軍歴史保存会編、第一法規出版1995年刊
② 愛知県能率研究会編「呉海軍工廠長伍堂卓雄造兵少将講述 能率増進講演録」1924(大正13)年=呉市史第六巻245ページ引用から
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
問い合わせ、ご指摘、ご意見はCONTACTよりお願いします。
「波頭」内の文章、写真、図表、地図を筆者渡辺圭司の許可なく使用することを禁止します。
問い合わせ、ご指摘、ご意見はCONTACTよりお願いします。