戦艦大和全体の設計を担当した松本喜太郎・技術大佐は著書「戦艦大和設計と建造」で述べる。。
この特殊巨砲は大和主砲の原点となったばかりでなく、世界的な軍縮の契機となった、との説をなす人がいる。庭田尚三という戦艦大和建造中に呉工廠造船部長を務めた人だ。当事者の話だ。
この論はある雑誌が組んだ「特集・日本海軍事件秘史」の一編、庭田尚三「戦艦大和建造秘話」にある。雑誌名や発行時期は自分の史料整理の不手際で不明だが、調査中だ。
文中に特殊巨砲の口径を20インチとしてるが、18.9インチが正しい。
…この二〇インチ砲は呉工廠の砲熕部が設計して試作し、同実験部が亀ガ首発射場で試射し、幾度か失敗の後漸く成功した巨砲であったが、その頃米国では一八インチ砲を製作実験中であり、英国は一七インチ砲を試作し、これを旧型戦艦の砲塔に装備して実験したところ、失敗しさらに試作研究中であった。
日本の巨砲製作の成功をスパイした米国は、巨砲製作競争に敗れたことを知って、この上は一六インチ戦艦をいくら造っても二〇インチ砲戦艦には叶わないと考え、英米が密約して一六インチ以上の大砲の製作を禁止するため、(ワシントン海軍)軍縮会議を提案して来たというのが、真相であったのである。…
ワシントン海軍軍縮条約は新造艦を主砲口径は16インチ(40.6cセンチ)以下、排水量は35,000トン以下と制限した。日本の特殊巨砲がワ条約の原因となった、という庭田説の裏付けは見つからないが、結果を見れば、日本の特殊巨砲を英米が警戒した、と言える。
特殊巨砲で考えることがある。
一つは1920(大正9)年に領収発射をした、という時期だ。
「海軍砲術史」の筆者は言う。②
…海軍創設の明治初年から長い間、兵器は外国依存であった。しかし先輩苦心の歴史を経て、軍艦筑波の建造に至って初めて大口径砲30cm砲の国産をすることができた。明治39(1906)年のことである。…
「筑波」は基準排水量13,750トンの一等巡洋艦で呉海軍工廠で建造された。艦としての竣工は1907(明治40)年1月14日。防禦鋼板をまとい、主砲は口径30センチ2門で戦艦の姿に近い。
大口径30センチ主砲を国産化して14年後には口径48センチの特殊巨砲を造った。14年間という短期間で口径が18センチも太い砲身を試作し、成功したのだ。
① 松本喜太郎著、戸高一成編「戦艦大和設計と建造」24ページ=アテネ書房2000年刊
② 海軍砲術史=水交会内海軍砲術史刊行会(新見政一会長)1975年1月刊
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